このような威風堂々とした名文は、挙げていけばきりがない。文学的なレトリックや言葉遊びをふんだんに詰め込んだ文章はさながら散文詩を読んでいるような興奮をもたらしてくれる(実際、終盤には散文詩そのものが挿入されていたりもする)。
本書から「うまみ」が立ちのぼってくるのは、掲載されているレシピから連想できる料理が美味しそうだから、だけではない。軽やかでありながらも知的な数々のエッセイは「美味しそう」ではなく、紛れもなく「美味しい」。往々にして、巧みな文章は美味なものだ。
その巧みさは読み手に、ある種の感情をもたらす。具体的に言えばそれは、ノスタルジアだ。
時として、自らの出自とはまったく関係のない民族音楽が埋没した過去を呼び起こすのと同じように、読み手は、遠い故郷の料理を描く著者の文章を読みながらふるさとの味、おふくろの味を思い出すことができる。
実際、筆者は本書を読んで、ロシア料理が食べたくなったのはもちろんだが、それ以上に強くイメージしたのは小さい頃に家で食べたカレーライスだった。子どもの口にはあまりにも大きすぎるジャガイモが入った、家以外では決して食べたことのない味のカレーライスだ。
優れた文章は読み手を同調させる。本文に書かれているはずのない、個人個人の思い出を容易く引きずり出す。本書ではそれが著者の筆力と、翻訳の妙によって極めて高いレベルで達成されていると言えるだろう。読んでいる最中に思わず唸らされること必至だ。
多くの人にとって、ロシアという三文字に対する印象は、ある時点から様変わりしてしまった。それも、かなり悪い方向へ。しかしそれは、本書を遠ざけてしまうにはあまりにもったいない理由だ。
いみじくも、30年前に刊行された本書で、著者は以下のように記している。
ロシアが遅れた野蛮な国だと思われているのは、わかりきっている。嫌われているし、怖がられていることも、言うまでもない。でもどうだろう、だからといってそれがロシア料理とどんな関係があるって言うんだ?
最後にもう一つ、本書の記述を引用しておきたい。これは冒頭の「日本語版への序文」に書かれた一節で、「ロシア料理には、日本料理との共通点はまったくない」と一刀両断したあとに続く言葉だ。
この二つの料理の伝統は、混じり合うわけにはいかないが、平和に共存することはできる。これらグルメ世界の主権国家たちは、互いに受け入れがたい差異を大事に守っていくのが、定めなのである。
グルメ以外の世界でもそうであれば……。多くの人が素朴に抱く、ナイーブで、しかし率直な祈りをあらわしているのではないだろうか。