4大素材おのおののシェアがこれまた、すごい。缶40%、ペットボトル25%、紙コップ60%(飲料用紙コップだと70 %)、キャップ60%、びん30%。脅威の数字なのだ。
コーヒーショップの紙カップ、洗剤容器、ビール缶、調味料のボトルや瓶、ペットボトル、各種スプレー缶、などなどの日用品にまったく触らずに過ごす時間の短さを考えれば、われわれ日本人が「東洋製罐グループで作られた容器を触らずに過ごせる日はない」のである。ちなみに、あの「氷結」ダイヤカット缶ももちろん、同社製品だ。
6年前、同社は創業100年を迎えた。彼らが考えるイノベーションとは何か。東洋製罐グループホールディングス イノベーション推進室 チーフビジネスプロデューサーの三木逸平氏に話を聞いた。
東洋製罐グループには百年以上の歴史があります。創業者の高碕達之助は、実業家でもあり、経済企画庁初代長官も務めた政治家でもあり、実はあの「キユーピー」の名付け親でもあります。後に「東京水産大学」となった農商務省水産講習所(現・東京海洋大学)を卒業後、アメリカ留学をして缶詰に出会ったのがきっかけなんです。
高碕はもともと、「自前の資源の乏しい狭小国土の日本は、海に囲まれていることを生かし、水産業でこそ豊かになるべきだ」と考えていたようです。そして、今後日本の人口が倍増し、食糧不足で輸入に頼らなければならなくなる。そうなれば輸出産業が必要だ。そこで、日本の豊富な海洋資源を活かし缶詰を輸出することを思いついたのです。
当時は、魚を獲る、缶を作る、缶に詰める作業を全て缶詰会社でやっていたため、会社によって規格がバラバラだった。それでは輸出に適さない。「缶詰は中身が見えないため、作り手が信頼される必要がある」。そう考えた高碕は、缶の製造を一手に担い、高品質で規格化された缶を提供する企業を作ったわけです。
その後戦争が始まり、缶を作るブリキが入手できなくなったので、ガラスや紙でも容器を作り始めた。プラスチックはもう少し後のことですが、こうして容器4大素材すべてを手がける会社になっていくわけです。缶をつくることは商売の目的ではなく、食を安全安心に届けるための手段でしかないのです。
武器は課題解決のための「支援」
食糧危機の戦後を経て、高度成長期には逆に多くの食糧を効率的に大量に安く供給することが必要になりました。そこで、まずは缶飲料製品のサプライチェーンを支える方法として、飲料メーカーの隣に缶工場を作り、ベルトコンベアーでつないで出荷をしていました。
また、容器という製品には高い機能性や、食品の保存性が非常に重要です。マヨネーズなどの食品用ボトルは単純なプラスチックに見えますが、実は「ラミコンボトル」という酸素遮断ボトルで、5層もの多層バリア技術(製品によって層構成は異なる)を使っているんです。これなら、中身が見えてかつ保存性が高い。
また、元来、宇宙食や軍事用に開発されたレトルトパウチを家庭用に実用化することも実現しました。レトルトパウチの開けやすさや利便性を、高度成長期の「生活のしやすさ」とつなげたのです。そして電子レンジが普及すればレンジ対応ができるように、改良していきました。
海外メーカーとの関わりでは、1940年代、60年代には米国の大手飲料メーカーの容器の需給がひっ迫した際に、日本から容器を輸出していました。
そんな具合に、われわれは課題解決のための「支援」を武器にビジネスネットワークを広げてきました。