漫画とアニメが大好きな子どもだったという若佐の作品は、極端に大きい目や口、”キラキラ”などが特徴的だ。サブカルチャーの影響が前面に出ているようにも見えるが、実はその作風はこれまでに大きく変化してきた。
地元広島の大学で日本画を専攻した若佐は、写実を元にした静かな風景画を描いていた。大学院で画力を磨き院展にも応募をしていたが、一方で世に残る痕跡にするには何かが欠落していると感じていた。そこで卒業前に作風を大きく変更し、龍や鳳凰、獅子や⻁など幻獣を描き始めた。
卒業後は、京都へ移り画家としての道を模索していた。そんな時、ある寺の依頼で描いた水墨画《寒山拾得》が、世界的にも有名な京都西陣の京縫伝統工芸士長艸敏明(ながくさとしあき)の目に留まる。
彼は絵でまだ食べることができなかった若佐に刺繍の原画を依頼した。若佐が描いた髑髏(どくろ)や道場寺の清姫などの図案は、長艸の刺繍として世に出ることになる。
「古くからの普遍的な美と時代ごとに求められる美の間を反復しながら作風を変化させ、その実験の成果が貯まるか貯まらないかのあたりでダムを決壊させ、放流する。その放流の場が若佐慎一にとっての個展」と語るのは、若佐の図案を父・長艸敏明に推薦した長艸刺繍の3代目長艸真吾だ。
舞台裏の混成チーム
個展は通常、美術館やギャラリーなど美術の専門家によって企画されることが多い。しかし、この個展を企画運営するのは経営者、クリエイター、エンジニアなど多様なバックグラウンドを持つ専門家チームだ。若佐にとっては「個展の作り方も実験のひとつ」なのだという。「裏方仕事のクオリティによっては、作品が意図しない形で伝わったり、作品の良さが伝わらないことも。裏方仕事を知ることは、作家にとって自立の第一歩。作品の制作は孤独だが個展はチームで生み出す醍醐味がある。
それに、同じ時代に違う文脈で生きている個と個がぶつかり、混ざることは作品づくりにも影響する。またアートの裾野が広がっている昨今では、ギャラリーやコレクターとの関係を大切にしながらも幅広い出会いも積極的に増やしていきたい。そのためには今回のようなチーム編成は効果的」