退任後から新たな事業を起こしていた村井氏は、なぜ門外漢であることを承知の上で、しかも当時、不祥事の連鎖に揺れるバドミントン界へ身を投じたのか。63歳、自身も驚いたオファーを受諾するまでの経緯や、バドミントン界でも引き続き実践していく「3カ条」の信念で下した決断を追った。
緊張のデジャブ
目の前で道が二手に分かれるとき、予想もしていなかった事態が生じたらどちらへ進むのか。村井満は言う。「緊張する方を選ぶのが、常に私の判断基準でした」と。「できるかできないか、というギリギリの仕事を前にしたときは緊張する。簡単にできる、もしくは絶対に無理だというときは緊張しない。Jリーグのチェアマンという大役を求められたとき、全身が震えるような緊張感を抱きながら『やります』と言った自分がいた」
リクルートで人事担当の執行役員や、リクルートエージェンシーの代表取締役社長などを歴任した村井が、Jリーグチェアマンに就任したのは14年1月。サッカー界に外部から初めて招へいされたトップとして大きな注目を集めた。リクルートがJリーガーのセカンドキャリアをサポートする業務を請け負っていた関係で、村井はJリーグ理事を08年7月から務めていた縁があった。
対照的に副会長に就任した日本バドミントン協会は、村井自身が「まったくの門外漢である分野」と公言してはばからない。接点が生まれたのは22年12月だった。
当時のバドミントン協会は不祥事の連鎖に揺れていた。同年3月。選手の賞金や合宿時の負担金など約680万円を、元職員が私的流用していたトラブルが公表された。着服行為は18年度に行われていた。協会側も事実を把握していたが、東京五輪への影響を考慮して表沙汰にせず、理事らが私費を出し合う形で補填していた。スポーツ庁や日本オリンピック(JOC)は、隠蔽行為を含めて不祥事事案として認定した。
一連の事態を受けて、22年11月に関根義雄前会長と銭谷欽治前専務理事が引責辞任。事業副本部長だった中村新一理事が暫定的に会長を務める中で、外部から新会長を招へいしたうえで、協会組織全体の抜本的な改革を行うべきだ、という声が上がった。
中村会長らは推薦された複数の候補者の中から、スポーツ団体運営における実績と経験、ノウハウを持ち合わせる村井に一本化。同年12月上旬に初交渉の場が設けられた。
この時の村井は「検討させてください」と返答するにとどめている。その後、日本バドミントン界が直面している危機を自分なりに調べ、年明けに再交渉の場が設けられた中で村井は、Jリーグチェアマンを受諾した時とまったく同じ緊張を覚えた。デジャブだった。