経済・社会

2023.02.27 12:30

ムシャラフ氏死去、リアリストがたどった厳しい運命

マンモハン・シン氏(左)とパルヴェーズ・ムシャラフ氏(右)(Photo by: Rajeev Thakur/ INDIAPICTURE/Universal Images Group via Getty Images)

パキスタンは1947年から71年にかけて3度にわたって起きたインド・パキスタン戦争で米軍の支援を十分受けられなかった。ソ連による79年のアフガニスタン侵攻では、米軍はイスラム主義勢力タリバンを支援した。だが、ソ連が89年に撤退した後は、米国は武装したタリバンを放置した。タリバンはパキスタン国内でもゲリラ活動を行ったため、パキスタンの治安状況はめちゃくちゃになった。パキスタンが98年に核実験を行った際には、米国から強力な制裁措置を受けた。
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国民の大反対を押し切って、米軍を受け入れたムシャラフ氏は、常に暗殺を警戒していたという。車列で移動する際には、必ずダミーの大統領車を一緒に走らせた。田中氏は「ムシャラフ氏は、陸軍司令部があるラワルピンディからイスラマバードに戻る途中、爆弾テロに遭ったこともありました。ダミーがあったおかげで、危うく難を逃れたそうです」と語る。

ムシャラフ氏はリアリストらしく、経済でも自由化政策を進めた。田中氏は、ムシャラフ氏がよく「外国からの投資が、昨年よりもこれだけ増えた」と嬉しそうに数字を挙げて語る場面に、何度も遭遇したという。しかし、その政策を推進すればするほど、国内のイスラム主義者からは「裏切者」と呼ばれた。

田中氏は「ムシャラフ氏が米国に接近すればするほど、パキスタン国内の情勢は、ムシャラフ氏が理想とする民主主義から遠ざかっていきました」と話す。ムシャラフ氏は2019年には国家反逆罪で欠席裁判のまま、死刑判決を一時受けたこともある。ムシャラフ氏は亡命生活を送ったドバイで、周囲に、パキスタンに戻りたい考えを漏らしていたとされるが、結局、その夢は果たされなかった。
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文=牧野愛博

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