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2023.02.24

済州島からイエメン、ウクライナまで 平和への希求を描く異色のルポ「逃亡の書」

済州島のトルハルバン(Getty Images)

古来日本では、「2月は逃げる月」と言ったそうだが、そんな今月、逃げることをテーマにした面白そうな1冊と巡り会った。その名もずばり、「逃亡の書」(小学館刊)というノンフィクションだ。

実は不勉強にも前川仁之(さねゆき)という著者の名に接するのは初めてだが、開高健ノンフィクション賞にノミネートされたこともある書き手らしく、前著は「韓国『反日街道』をゆく:自転車紀行1500キロ」と題した大韓民国をチャリで走破した記録だそうだ。

この新著でも因縁深き日韓両国を取材しているようで、映画好きから隣国が気になる身として、は大いに興味がつのる。
 
そこでさっそくページを開くと、2018年の初夏、著者が済州島(チェジュド)に向かうところから始まる。済州島といえば、映画「楽園の夜」(2019年)やドラマ「私たちのブルース」(2022年)の舞台となった韓国のハワイと呼ばれる世界遺産の島だが、著者の目的は観光ではない。ルポルタージュの取材である。

他者の懐に分け入る著者の才能

当時、朝鮮半島南西の海に浮かぶこの楽園の島は、にわかに巻き起こった難民問題で揺れていた。事の発端は、さまざまな条件が重なり、世界最悪の人道危機とも言われた母国の内戦を逃れたイエメン人たちが、マレーシアを経由して、多数やって来たことだった。ほどなく生じた地元民との間の摩擦はみるみるエスカレートし、韓国政府は対応に苦慮していた。

古えにはギリシャやローマの著作家をして「幸福なアラビア」と言わしめた栄華を極め、漂泊の詩人ランボーが暮らした地としても知られるイエメンには、著者も深い思い入れがあることが、出だしからも伝わってくる。しかし敢えてそれを抑え、中立的なスタンスを意識しながら取材は開始される。

旅装を解く間も惜しみ、まずは難民申請や審査を管轄する出入国・外国人庁へ空港から直行した後、ロールプレイング・ゲームで経験値をあげるように、出会ったイエメン人と思しき人々に次々話しかけていく。それと並行し、韓国側の関係者たちとも積極的に接触を重ね、綿密な情報収集に怠りはない。

しかし、難民の受け入れをめぐって対峙する両サイドの溝は広くて深い。急増するイエメン人たちを、仕事を奪う「ニセ難民」と決めつけ、「強姦しそう」とまで偏見をむき出しにする反対派。一方支援派は、韓国人が敬遠する3K(危険、汚ない、きつい)を厭わぬ真面目さと働きぶりを高く評価する、といった具合だ。
 
「難民」を辞書で引くと「天災・戦禍などによって、やむをえず住んでいる地を離れた人々」(デジタル大辞泉)とある。イエメンからの難民は、2014年のフーシ派(共和制の廃止や反米・反イスラエルを主張するイスラム諸分派のひとつ)による首都占拠により、周辺諸国を巻き込み激化する武力抗争から生じたものだが、著者は忽ちのうちに、地元の過剰な反応を日本人の排他的な一面に通じると看破する。

すなわち、イスラム教徒の彼らが被っているのは、朝鮮戦争勃発の前夜に起きた済州島四・三事件(南北統一での自主国家樹立を目指した蜂起を政府が弾圧、数万人規模の犠牲者を出した)で日本の関西方面へ逃がれ、在日コリアンとなった人々が、今もデマや誹謗中傷に晒される日本の現状と同質のものだと分析するのである。

しかし、面白いのはここからだ。支援者の体験談が反対派の論より単純に面白いと感じた著者は、いきなり取材対象であるイエメン人たちのコミュニティに飛び込み、当事者たちと対等な関係を築こうとする。新天地に溶け込もうとする難民らが通う韓国語を学ぶ夜学の講座に足を運び、みるみるイエメン人たちの輪の中に溶け込んでいくのだ。

言語習得に対する飽くなき探究心もさることながら、好奇心の赴くままに、するすると他者の懐に分け入る人懐こさが、著者にはひとつの才能として備わっているのだろう。そんなコスモポリタンの気質は、第2章以降さらに全開となっていく。
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文=三橋 暁

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