マジック・ジョンソンやラリー・バード、後にバスケの神様と呼ばれるマイケル・ジョーダンなどの逸材登場を機に、敢えて選手の平等性を求めず、意図的にスーパースターを育成する戦略が大当たりし、NBA全体の人気を爆発させた。
アパレル・メーカーをはじめとするタイアップ契約も推進し、観客動員数、テレビ視聴率も大きく向上させた。
そして、国際市場開拓を目論み、1992年のバルセロナ五輪で初めて現役選手の参加を認め、「ドリームチーム」を編成して出場した。
結果はもちろん金メダル。圧倒的な強さとダイナミックなプレーを世界中に拡散することに成功した。以降、テレビ放映を中南米や欧州、アジアでも推進し、海外事業展開を本格化させた。
90年に日本上陸 一大ブームに
海外で初めてレギュラーシーズン試合を開催したのは、日本だった。1990年11月に東京体育館でフェニックス・サンズ対ユタ・ジャズの2試合が行われた。
そして、92年、94年と横浜アリーナで開催を重ね、96年9月には『HOOP HEROES(フープ・ヒーローズ)』と銘打ったイベントが、ナイキと東京ドームの共同招聘で行われることになった。
ナイキ本社の興行事業部長と筆者がスターン・コミッショナーとの交渉に当たり、マイケル・ジョーダン、チャールズ・バークレー、ジェイソン・キッドといった人気選手を来日させ、スペシャルゲストはカール・ルイス。米国出身の大相撲力士、曙や武蔵丸、小錦とのデモ対戦も組み、2日間のイベントは大いに盛り上がった。
ただ、NBAの主催イベントではなかったため、NBA選手によるデモ試合は3対3の形式を取らざるを得なかった。コミッショナーが5対5の試合を興行とすることを頑なに拒否したのだ。
彼とはニューヨーク郊外のスカースデールで隣人でもあったので、幾度も自宅に押しかけて談判したが、「NBAの正当性を護るため」との理由で最後まで応じてもらえなかった。