ソニーオープンのルーツは、青木功選手が「奇跡のチップイン・イーグル」で日本人初の米国PGAツアー優勝を果たした1983年に遡る。当時は「ハワイアンオープン」という名称でまだソニーの冠はなかったが、まさに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代を象徴する出来事として、プロスポーツ界のみならず広く歴史的な快挙として記憶されている。
1999年からソニーが冠スポンサーとなり、ソニーオープン・イン・ハワイがスタート。今年は25回記念大会となったが、昨年の大会では、松山英樹選手がマッチプレイでの劇的なイーグルで青木功選手以来となる日本人選手としての優勝を決め、日本人ファンは大いに盛り上がった。
日本に近いハワイだが、れっきとした米国。そのハワイで日本企業が冠の大会で日本人が優勝する姿は感慨深いものだった。そして、実はこのソニーオープン・イン・ハワイの発足時には、知られざる内幕があった。
難航していたスポンサー交渉
古くは1982年に始まった「ホンダ・クラシック」があるが、1990年代当時、米国PGAツアーは、日本の会社が次々にツアースポンサーとなることに難色を示していた。その困難な交渉にあたったのが、当時「ソニーハワイ」の社長だった坂井諒三さんだ。坂井さんは当時の盛田昭夫ソニー会長の薫陶を受けた「最後の教え子」のような存在であった。坂井さんが振り返る。「海外に拠点を広げ世界的に知名度が上がっていたソニーと言っても、冠スポンサーとなる交渉はそんなに簡単ではありませんでした。ソニーが東京通信工業という小さな会社だった時代に、世界にマ―ケットを拡大する際、足がかりの地としてハワイの日系人にとてもお世話になったという経緯があり、プロゴルフの大会はハワイコミュニティへの貢献にはぴったりのイベントだと考えていました」
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の象徴のような大企業であるソニーでも、それまでの冠スポンサーであるアメリカ企業「ユナイテッド航空」の代わりになるには、米国ゴルフ界にはまだ見えない障壁があったわけだ。
そんな折、ハワイでマイケル・ジャクソンのコンサートが開催された。1997年、アロハ・スタジアムで開催されたコンサートは連日の超満員。チケットはプラチナペーパーとなり、ハワイはマイケル・ジャクソン熱に沸いた。壮大な舞台装置で、客席をマイケルがぐるぐる巡るようなダイナミックなステージ。連日のマイケルの疲労は大変なものだったと思う。
当時、マイケルはソニー傘下のレコード会社と契約しており、盛田昭夫元会長とは親しくしていた。連日のコンサートの合間をぬって、ハワイの盛田昭夫邸に駆けつけたそうだ。当時の盛田邸は、現在のソニーオープン開催会場であるワイアラエ・カントリークラブのすぐ横にあった。そのときの様子を坂井さんが振り返る。