マイケル・ジャクソンは盛田邸に遊びに来るだけでなく、実は難航していたPGAツアーのスポンサー交渉にも貢献した。ある日、ニューヨークで行われたスポンサー交渉の席で昼食の時間となり、PGAツアーのメンバーとソニーの関係者はビル最上階のレストランに移動した。
そこにたまたま居合わせたのがマイケルで、彼はPGAツアーの会長やスタッフにソニーの素晴らしさやエンターテイメントビジネスと関係を持つことの重要性を説いたという。ソニーがスポンサーになる後押しをしたわけだ。
すると、そこからPGA側の態度が変わった。1週間もしないうちに1999年大会からのソニーのスポンサードが決まったのだ。この異例のスピード決定の裏にマイケルの存在があったことは間違いないだろう。
マイケルと盛田元会長との交流
なぜ、マイケルはこれほどソニーに肩入れしたのだろうか。それは、マイケルが1991年に発表したアルバム「デンジャラス」に遡る。このアルバムに大きな自信と期待を抱いていたマイケルだったが、思いとうらはらに、当初のセールスは予想より芳しくなかった。前作「バッド」の売上記録が壮大すぎたこともある。日本でのセールスも含めて、出だしがあまり良くなかったのだそうだ。実際、マイケルの作品では珍しく、日本ではオリコン4位のスタートだった。「悩むマイケルを救ったのが、当時のソニーの盛田会長と大賀典雄社長でした。デビュー当時から盛田会長はマイケルを気に入っており、家族ぐるみの交流があったのは有名な話。このときもマイケルは盛田邸に自ら電話を入れて、アルバムのセールスについて相談したのです」(坂井さん)
盛田会長の指示のもとソニーは事実を確認し、当時の米国ソニーミュージックのトミー・モトーラ社長に電話をかけてマイケルのセールスについて指示したという。その甲斐あってか、収録曲のシングル「ブラック・オア・ホワイト」が大ヒット。それを皮切りに、アルバムは順調なセールスを記録した。
そのときの恩義をマイケルは忘れなかった。1993年に盛田会長が脳卒中で倒れたときも、海外から真っ先に連絡をしてきたのはマイケルだった。
マイケルは盛田会長が病床で聴けるようにと、自らヒーリングテープを編集。彼の選んだ静かな曲とともに「ミスター盛田、あなたは必ず良くなる。必ず話せるようになる」と吹き込まれていたという。カセットテープの箱には彼自身の手書きで「朝、昼、晩にかけて聴いてください。マイケル・ジャクソン」と書かれていた。