Forbes JAPAN SALON

2023.02.14

人と自然が共生可能な未来を見据える「森林デザイン」は、1本の苗木から

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上原樹苗 代表取締役社長 上原和直

「資源のない国と称される日本ですが、国土の67%は森林であり、山から生まれる恩恵にはまだ大きな可能性があります」と指摘する、上原樹苗 代表取締役社長 上原和直氏。森林を構成する多種多様な苗木を専門に取り扱って成長を続け、人と自然が共生可能な苗木での「森林デザイン」で、持続可能な100年先の未来をつくり出そうとしている同氏のライフストーリーに迫る。


「俺がやめたら、みんな困るだろうよ」という祖父の言葉


──上原さんはどのような少年時代を過ごしたのでしょうか。


父や祖父が農業に従事している姿を見ながら、何不自由なくわんぱくに育ちました。家業は明治時代に盛んだった桑苗農家のひとつでしたが、時代とともに苗木産業が斜陽となり、周囲は転業・廃業。父の代になると、周囲には苗木農家どころか、農業を営む家自体がなくなっていました。父もつくっていたのは苗木ではなく、短期で収穫して利益の出やすい野菜や米などの作物が中心でした。

中学生の頃のことです。「苗木ではメシは食えない」とぼやいている祖父が、苗木の世話をしていました。そこで私は聞きました。

「苗木は儲からないのに、なぜやめないの?」

「俺がやめたら、みんな困るだろうよ」

その他者を思いやる一言が、私にはとてもかっこよく響きました。そこから私は、森林や苗木の勉強を本格的に始めました。確かに造林をする場合、苗木は不可欠です。私はすっかり苗木の可能性に魅了され、苗木専門の販売でやっていきたいと、父に相談しました。

「売れない苗木をつくるなんて、到底馬鹿だとしか思えない」

父にそう言われても、私は納得できませんでした。売れない時代のハードルは高いけれど、国土の67%が森林の日本では、その需要がゼロになるとは到底思えません。つくり手が減れば、当然希少価値が生まれ、苗木は重要視されます。

知識の少ないなかでしたが、苗木はビジネスになると考えたのです。むしろ周りが撤退してしまったからこそ、自分たちが引き受けなきゃならない。そんな使命感を感じていました。

ではなぜ、祖父のような、心の中では「なんとか苗木でメシを食いたい」という人がいたのにかかわらず、苗木産業は下火になってしまったのでしょうか。高度成長期を支えたスギ植林の国策が原因なのでしょうか。祖父は言います。

「国もよくなかったかもしれないが、俺たちも悪かった。売れればいいと考えて、その後の使われ方、喜ばれ方など、ちっとも気にしていなかった」

私はその言葉をきっかけに、環境や森林についてより深く、幅広く考えるようになりました。


東日本大震災で被災、それでもその経験を宝と思う理由


──家業の農業をそのまま継ぐのではなく、ご自身で考えた苗木に特化したビジネスを行っていきたいと考えたきっかけはなんだったのでしょうか?

本格的に家業を継ぐ前に、中国の内モンゴル自治区で砂漠緑化活動に参加したのです。訪れると現地の人が「昔はここに山があったんだよ」と写真を見せてくれました。ただ薪を得るために伐採するだけで、植えることをしなかったのだそうです。

日本では現実的に砂漠化はないとは思いますが、伐採するだけでしっかり考えて植林を行わなければ、豊かな森林は少なくなります。野菜を育てるのもよいのですが、私にとって苗木づくりは森林環境のもとであり、ひいては日本全体の環境課題解決の糸口になると感じたのです。

──その後、上原樹苗の社長に就任する経緯について、教えてください。

実は20代前半の段階で、対外的な交渉から「上原樹苗」としての法人設立に至るまで、経営業務はすべて私が行っていたのです。実際に苗木がどのように使われているかを知るために、営業も兼ねて、全国の森林地帯や苗木生産の現場を回りました。それらが右肩上がりの事業成長につながり、30代になる頃にはすっかり天狗になっていました。

ところが東日本大震災に被災して、その鼻がポキリと折られたのです。それまで当たり前に存在していた生活、環境など、すべてのものが津波に一瞬で飲まれて消え去ってしまいました。それも自分の能力とは関係ない、日頃から崇めている自然の力で。

それはもうとてつもない衝撃でした。手違いで死亡者リストに載って、死んだと思われていました。全国への苗木の送付も、当然すべてストップです。

それでも必死に、なんとか電話回線を復旧するところまでこぎ着けました。するとすかさず着信音が立て続けに鳴り始めました。電話口から聞こえたのは、

「こっちはもう仕事も請けているし、苗木が届かないと困るんだよ。何とかしてくれよ」

という日本全国の顧客からのクレームやお願いでした。それこそ、大丈夫かと聞く前にクレームやお願い。

ショックを受けるところなのでしょうが、私はむしろ、そこまで私の仕事が周囲に対して影響があったことに驚きました。祖父の言っていた「俺がやめたら、みんな困るだろうよ」という言葉が、心に響きました。事業の方向性が間違っていなかったことも確信できました。

そうして業務にひたすら打ち込み、2017年に正式に代表取締役に就任しました。

被災前年間150万本だった生産量も、現在では250万本規模に拡大することができ、2020年には「第59回 農林水産祭 天皇杯 最優秀賞」も受賞できました。被災経験はいまもなおリアルな衝撃として覚えていますが、「人の力では制御できない自然との付き合い方」を深く考えるよいきっかけにもなりました。そういう意味では、私の宝でもあります。

約100種の苗木を生産する上原樹苗の「森林デザイン」


──上原樹苗の具体的な業務内容について教えてください。

苗木農家は一般的に、需要の多いスギ・ヒノキなどの針葉樹の生産に特化していることがほとんどです。しかし上原樹苗は、針葉樹だけでなく落葉広葉樹や近年生産されていなかった植物を含む約100種程度の苗木を生産し、販売しています。

その理由は、実際に山を訪れてみるとわかります。どこにもスギ、ヒノキだけで構成されている森林などないのです。もちろんスギ、ヒノキも重要な資源で苗木を植えなければなりません。ですが、今後重要なのはどこに何を植えるかなのです。森林の選択肢を多くし、そして適切に森林を管理する必要があります。

そこで私たちが行っているのが苗木での「森林デザイン」です。伐採後の植林から、育った樹木の効率的な使用用途まで考え、将来の災害リスクを減らし、適切な種類の苗木を植えていくことで、人間と共生可能な豊かで多様な森林をつくっていく取り組みの支援をしています。


1枚目はヤマザクラの苗畑写真。2枚目はスギのコンテナ苗写真。

1枚目はヤマザクラの苗畑写真。2枚目はスギのコンテナ苗写真。

以前からドイツ、オーストリアなどヨーロッパを訪れ勉強してきましたが、そうした国々は共生が非常に進んでいます。現地の人に「日本は森林が多い国なのに、自分たちの山を守らずに外国で休暇をとって文化的だと思っているのは、とても先進国とは言えません」と面と向かって言われて恥ずかしい思いをしたこともあります。

その通りなのです。だから私たちは、苗木での森林デザインに取り組んでいるのです。私は日本が木材保有量で資源大国であることはしっていますし、日本の山がもっと恩恵を拡大する、伸びしろも信じています。自然のままではときに災害にもつながってしまう森林。適切なデザインや管理が必要な現実を、もっと多くの人に知ってもらいたいと思っています。


自社だけでなく苗木業界全体を知ってもらいたい


──上原さんの趣味についても教えてください。


10年前から始めたキャンプです。もともと植物が大好きというのもありますが、自然で商いをさせていただいているので、そこでビジネスのインスピレーションを得ることもしばしばです。

──Forbes JAPAN SALONに入ってみて、どのような感想を抱いていますか。

仕事で出会う方はやはり、ある程度限定されてしまいます。Forbes JAPAN SALONは普段出会わない方々に会える、広いコミュニティだと感じています。より広い視野を得ることができる場でもあり、発信も可能。そもそも苗木業界自体を知らない方が多いので、存在を知ってもらうためにもよい場ですね。

100年後の将来、自然と共存・恩恵を受けられている日本社会を構築するために、SALONでの出会いを活用して、業界を超えたコラボレーションができればいいなと考えています。

キャンプで愛用しているヤマザクラの皮細工を使用した大きなナイフ。山桜の工芸品は多いがナイフは珍しい。 刃は新潟の燕三条製。

キャンプで愛用しているヤマザクラの皮細工を使用した大きなナイフ。山桜の工芸品は多いがナイフは珍しい。 刃は新潟の燕三条製。



うえはら・かずなお◎福島県・浜通りの農家に四代目として生まれ、幼い頃から祖父に苗木づくりの教えを受ける。砂漠緑化活動を経て、2002年就農、05年に苗木専門プロパー・上原樹苗を法人として設立。11年の東日本大震災を経て、正式に17年に代表取締役社長に就任した。令和元年全国山林苗畑品評会 農林水産大臣賞、令和2年 農林水産祭 天皇杯最優秀賞受賞。

Promoted by Forbes JAPAN SALON /interview & edit by Akio Takashiro / photographs by Shuji Goto

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