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2023.02.11 17:30

当事者発・しなやかに広げる「合理的配慮」#人工呼吸のセラピスト

最寄り駅での困りごと

このころの押富さんは、家にいるときは週2~4回のペースで外出し、名鉄瀬戸線の駅員たちとも顔なじみになった。

17年秋には、東京で行われた一泊研修に参加することを思い立った際、交通関係の課題が出てきた。
尾張旭市の自宅から研修会場へは約3時間かかり、午前5時台の始発で行く必要がある。

ふだん、電車を利用するには、車いす用の改札の鍵を開けてもらって、エレベーターでプラットホームに移動し、駅員さんが用意してくれたスロープ(渡し板)で電車に乗るのだが、最寄り駅には始発前に駅員さんがおらず、介助の人手がない。

相談したら「すみません。私、そんなこと考えたことがなかったもので」と、なじみの駅員さんは固まってしまった。

その正直さに好感を持ちつつ、既に新幹線の予約をしていること、次の電車では遅刻しそうなことを説明して対応を求めたが、いったんは「やっぱり始発乗車は無理です」と断られた。

ところが数日後、別の用で駅に行った際に駅員さんが駆け寄ってきて「大丈夫です。始発に乗れます」。本社で検討し、特別に始発前にタクシー出勤することにゴーサインが出たという。

「たった一人の車いすの乗客のために、始発電車に乗れる方向で話し合ってくれたことがめちゃくちゃ嬉しかった」と押富さんはブログに書いた。合理的配慮のストライクゾーンを広げたのは、押富さんの生き方を応援する駅員たちの思いだ。
 
2017年秋、一泊研修で東京に出かける新幹線の車中で

2017年秋、一泊研修で東京に出かける新幹線の車中で

市営バス「車いす対応」の行方

尾張旭市は、市役所や病院などを巡回する市営バス「あさぴー号」を1回100円の低料金で運行している。そのバスを車いす対応にすべきかどうか、公共交通の協議会で議論が交わされたことがあった。

メンバーの一人・成瀬史宣さん(ピース・トレランス副代表理事、社会福祉法人ひまわり福祉会)は「車いす対応にするにはバスの車種を変えなくちゃいけないとか、狭い道を通れるかとか、いろいろ意見が出てまとまらなくて、押富さんに聞いてみようってことになったんです」と当時を語る。

答えは明快だった。

「車いすの人の昇降作業を運転手さんがやっている間、他のお客さんは待っているから、“まだかよー”って雰囲気になりがちだよね。そんな体験をしたら、私は乗らないと思う」
 
この意見で協議会の空気が一変した。通常のマイクロバス2台とは別に、予約制の7人乗りの車いす対応車を配備することになり、県の補助金を得て2021年度に導入された。
 
だれも排除しない「インクルーシブ」とは「常にみんな同じ」って意味ではないと成瀬さんは気づかされたという。「他の人に迷惑をかけたりして、負い目に感じるようなことがあれば、車いすで外出する意欲を損ねてしまう。本人の思い、周りの人の思いを考えて仕組みを作らなくちゃいけないんだと感じました」

この対応車が21年3月に試験運行された際に、押富さんも一度だけ乗っている。母・たつ江さんと共に車窓の風景を眺め、バス停の位置などを確かめ「また利用しますね」と笑顔で降りていった。

しかし、翌日早朝に体調を崩して緊急入院し、再び戻ってくることはなかった。

「私の場合、低空飛行がデフォルト(初期設定)だから、退院直後が一番調子いいんだよね」と、不調のときも笑顔で活動を続けた押富さん。

最期まで、やりたいこと、楽しいことを最優先した人生だった。

連載:人工呼吸のセラピスト

文=安藤明夫

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