「車いすから見える世界」
ごちゃまぜ運動会などピース・トレランスのイベントに精力的にかかわってきた廣中志乃さんは、中学3年になる長男・翔梧さんが超低体重で生まれ、脳性まひで寝たきり。孤独な育児に苦しんだ経験から「家に閉じこもりがちな重度心身障害児の母親たちがつながる場を」と、2014年に「NPO法人にこまる」を尾張旭市に立ち上げた。在宅の医療ケア児へのヘルパー派遣や、障害児の放課後デイサービスなどの通所施設を運営している。
押富さんから受けた衝撃の大きさを、廣中さんはこう説明する。
「私は息子から与えられたことはたくさんあるけれど、息子がどう思っているか、考えることはなかったんです。言葉を発しない子だから、私が決めるのが当たり前だと思ってた。でも、押富さんが『私のことを私抜きで決めないで』と行動する姿に、自分の常識を覆されました」
16年夏。押富さんと一緒に地下鉄に乗る機会があり、「車いすから見える世界」を教えてもらった。
駅の券売機の位置が高くて、切符を買うときはだれかに介助をお願いせざるをえないこと。プラットホームの点字ボードは、車いすユーザーには振動があって苦手であること──。わが子が車いすで生活しているのに、知らないことばかりだった。
この時の行き先が、車いすの障害者たちの活動拠点として有名な社会福祉法人AJU自立の家(名古屋市昭和区)。最寄りの御器所(ごきそ)駅に降りたら、周りの人たちが押富さんの介助に駆け寄ってきて「ここでは、障害者はマイノリティーじゃないんだ」と気づいた。
車いすで外に出ることで社会が変わる、という意味を実感できた。
大事なのは「子どもが選ぶこと」
にこまるの職員や親たちにも共有してほしいと、押富さんを講師に「自己決定」をテーマにしたセミナーを開いた。そして、18年からは非常勤の作業療法士として勤めてもらうことにした。隔週の短時間勤務と在宅ワークだ。押富さんが主に担当したのは、季節に応じたプログラムの提案や指導だ。たとえば「鯉のぼりを作ろう」。ビニール袋に、さまざまな色の紙を丸めて詰めて、形を整える。大事なのは、子どもに好きな色を選んでもらうこと。
通常のコミュニケーションは困難な子が多いが、日ごろからいろんな質問をして、表情や動作などの反応を見る中で、本人の思いが表出されることもある。それが自己決定の芽。
クリスマスリースのような小物の場合は、「何個作るか、だれにあげたいか」も質問したりする。それぞれの子に合わせて、手順を変える場合もある。
いつも手順書で作業の目標や進め方などを丁寧に説明し、自作の見本も添えるのだが、そのクオリティーが高すぎて、スタッフたちは真似できなかったそうだ。
作業療法士として働くのは11年ぶり。大好きな子どもたちに関わる仕事を、押富さんは心から楽しんでいた。そんな姿を見て、廣中さんは思った。
「私たち親は、障害のある子を産んで申し訳ないって、心のどこかで思ってきたけれど、そんなふうに考えなくていいんだと気づかせてくれた」 その言葉は、林さんとぴたりと重なる。
障害を持つ作業療法士として一緒に「当事者セラピスト」の講演活動をしていた山田隆司さんも、にこまるの施設長になり、本人の思いを大切にする意識が隅々に浸透していった。
2021年4月初め。押富さんから届いたLINEは、入院が長引いていることを伝え、次のプログラムにチョウチョの壁飾りとマイすごろくを提案していた。
それが最後になるとは、廣中さんは想像もしていなかった。
連載:人工呼吸のセラピスト