映画

2023.01.21

自分の「限界」を意識すると、強く優しくなれる?丨映画「アイ・アム・サム」

映画「アイ・アム・サム」より イラスト=大野左紀子

周囲の人の抱える問題が明るみに

サムの持つ「限界」の意味は、彼の弁護士リタとの関係にも現れる。当初彼女は、知的障害を抱えお金もないサムを、自分の”良心”を誇示する材料くらいにしか捉えていない。リタにとってサムは、文字通り一般の大人のレベルに達していない「限界を持った人」だ。

一方、アクティブでいかにも有能そうなリタの、秘書に盛大に八つ当たりしたり、荒っぽい運転の最中に悪態をついたりといった振る舞いからは、どこかに問題を抱えている人の匂いがする。

案の定、中盤以降の私生活の描写によって、このキツめの女性弁護士が犠牲にしているものが明らかになっていく。豪華な邸宅に暮らしながら仕事一筋で夫に浮気され、幼い一人息子は母の愛を求めているが放置されて心を閉ざしたまま。それにリタはうまく対応できない。イライラしながらキッチンで袋からマシュマロを貪り食うシーンは、軽く”病み”を抱えた人そのものだ。

離れ離れの状況になっても、ルーシーと固く結ばれた愛情関係に変わりはないサム。息子をどう扱っていいのかわからず、手をこまねいているリタ。見る者は次第にこの二人を、「限界」があるがゆえにシンプルなところで安定している親/さまざまな知識や知恵を持っているはずなのに何もできない親、という視点で見ざるを得なくなる。

ある人が家族とどのような関係を作ってきたか、それがその人の内面にどんな影響を与えているか、外からはなかなかわからないものだ。

リタ以外の登場人物でその隠された面が思いがけず見えてくるのは、裁判で証人台に立ったサムの分析医とアニーである。父親に起因するらしい彼女たちの”病み”が、質疑応答中のふいを突かれた状態において浮かび上がる。

サムが不変である一方で、リタをはじめとした周囲の人の抱える問題が明るみになっていく中、障害者はいたってまともで、むしろ健常者の方が病んでいるようにさえ思えてくる。

リタ・ハリソン役を演じたミシェル・ファイファー (2001年)Getty Images

リタ・ハリソン役を演じたミシェル・ファイファー (2001年)/ Getty Images

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文=大野左紀子

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