政治

2023.01.25 09:30

中学生が手嶋龍一氏と学ぶ戦争の構造、プーチン戦争下「公然の密約」

アメリカの諜報能力が「ある危機」を回避した

1969年当時、そう、東西冷戦の真っただ中、西側陣営を率いる超大国アメリカは社会主義陣営と鋭く対立していました。ところが、その社会主義陣営は決して一枚岩ではありませんでした。ソ連と中国が東側陣営を二分して対峙していたのです。60年代の前半は、社会主義陣営をどう率いていくのか、思想の上でのいわゆる“イデオロギー対立”でした。



ところが60年代後半になって対立の構図は、中ソを隔てる長い国境を挟んで精鋭部隊を結集させる軍事上の対立に発展していきました。そして1969年には、ダマンスキー(珍宝)島付近で、中ソの両軍が衝突する軍事紛争に進展していきました。

当時の日本は、日本海を挟んで対岸に位置しながら、核戦争の危機が迫っていたことに全く気づいていなかったのですが、ソ連の指導部、クレムリンは、隙あらば核兵器で中国を攻撃しようと狙っていたのです。核のボタンに手をかけていたソ連、核攻撃の標的になっていた中国は、核戦争の瀬戸際にあったことをむろん知っていました。

そうした中で超大国アメリカは、その優れた諜報能力、そう危機を察知する情報の力、後に説明する“インテリジェンス能力”によって、中ソ核戦争の危機が迫っていることに気づいていました。アメリカは情報衛星や偵察機を駆使して、ソ連の最精鋭部隊が中ソの国境に迫っている事実をつかんでいたのです。ソ連側が通常の地上兵力だけでなく、核兵器によって中国を攻撃する準備をすすめていることを察していたのです。

あの冷戦の時代、アメリカ、ソ連、中国という大国は、強大な軍事力を手に互いにけん制しながら並び立っていました。米・中・ソの三大国が微妙な均衡を保っている三極体制のなかで、ソ連が中国を核攻撃して優位にたてば、冷戦の国際政局はソ連にぐんと有利になってしまいます。

日本列島のすぐそこで進行していた「核戦争の危機」

そんな国際政局に危機感を抱いていたひとがいました。ニクソン政権の国家安全保障担当の大統領補佐官だったヘンリー・キッシンジャー博士でした。ソ連が中国を核で攻撃するようなことがあれば、アメリカは中国の側に立つこともためらわない──。優れた戦略家は自ら「特別声明」の筆を執り、重要なシグナルをモスクワに送ったのでした。これによって中ソの核戦争の危機は遠のいていき、劇的な和解を実現するきっかけとなりました。そして2年後の1971年夏、キッシンジャー補佐官が北京を電撃的に訪問し、厳しく対立していたアメリカと中国が和解したのでした。
次ページ > 核の危機を「同時進行で体験」

編集=石井節子 撮影=曽川拓哉

ForbesBrandVoice

人気記事