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2023.01.25 19:00

森鷗外が「白米」にこだわった理由 元記者の精神科医が再分析

37歳、小倉赴任前の森鷗外(出典:『別冊太陽 森鷗外 近代文学の傑人生誕150年記念』平凡社)

たしかに、日清・日露戦争従軍までの鷗外の言動は、医学のみならず文学界においても攻撃的かつ粘着質なものだった。
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医師の西村正氏は著書『闘ふ鷗外、最後の絶叫』(作品社)で鹿島氏の鷗外ドーダ説を引き、ドイツ留学中の会議で日本の後進性を指摘した地質学者ナウマン(ナウマン象の提唱者)に猛反発した鷗外を「国家と自己とが一体化している彼にとっては、日本=自我へのあざけりは絶対なさねばならぬ仇討」と評している。

旧津和野藩典医の長男として森家の期待を一身に背負い、文明開化の時代に立身出世を望んだ鷗外にとって、留学先で母国の非難を浴びることは、母つまり自分を否定されるも同然に感じただろう。

同時にこの頃、青年鷗外の心が最も激しく揺れたことは疑いがない。留学中エリーゼとの邂逅、帰国し断腸の思いでの離別、望まぬ結婚の受容と、プライベートの難事と並行して脚気の原因究明の使命を負った。とびぬけた頭脳と理想だけでは、世の中を渡っていくことは困難だと鷗外は悟ったに違いない。
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西村正氏著『闘ふ鷗外、最後の絶叫』と林尚孝氏著『仮面の人・森鴎外「エリーゼ来日」三日間の謎』 西村正氏著『闘ふ鷗外、最後の絶叫』と林尚孝氏著『仮面の人・森鴎外「エリーゼ来日」三日間の謎』

農学博士の林尚孝氏は著書『仮面の人・森鴎外「エリーゼ来日」三日間の謎』(同時代社)で、「弱い心」の克服が鷗外の障害の課題となり、『舞姫』でそれを塗り込めて仮面を被り、強い意志の人を演じ通したと分析する。それが「脚気病原説」を主張し続けることに繋がったという見方だ。

さらに「子供たちに寄せる愛情は、大人の世界の醜悪な出来事についての罪滅ぼしであったのかも知れない」と推測している。

いずれの論旨も十分にうなずけるものではある。だが、何か足りない気がしながら、鷗外に関する文献を漁っていたら、あった。

鷗外の白米へのこだわり

『講座森鷗外1 鷗外の人と周辺』(平川祐弘、平岡敏夫、竹盛天雄編、新曜社)所収の「森軍医監の凱旋」(大石汎著)。日露戦争(1904〜05年)での軍医部長としての鷗外を「等身大の鷗外像に仕上げ」ようとした文学者による論考。

陸軍の主食を白米に決めた鷗外だが、脚気の増加は無視できなくなり、戦争2年目からは東大医学部で同期だった小池正直衛生長官の命で、全軍とも米麦混食となった。

繰り返すが、当時の脚気は原因不明だった。海軍の兵食にしても、たんぱく質の割合を増やす方針がVB1確保と同一だったからこそ奏功したのであって、現代医学の視点から弾劾するのはフェアでないと感じる。ただ、鷗外の白米へのこだわりは、その深層心理も含め、評価する必要はあるが。

ひと言でいえば、瑞穂の国である日本を象徴するコメに対する郷愁と、西欧先進諸国に追いつかんとする明治エリートの矜持とのあいだの葛藤、ということだろう。

大石氏によると、鷗外は医務局長を小池から引き継ぎ、臨時脚気調査会を主宰する立場になっても見解は変わらなかった。ところが、自分の退任時には麦飯採用を進言した後輩を次期局長に推薦している。出処進退について「鷗外から学ぶものは文学だけではない」と大石氏は書き留める。

日露戦争で第四軍医部長を務めた藤田嗣章は画家・藤田嗣治の父親だが、自らの伝記で鷗外を評しており、抜粋する。

「文学に深入りし過ぎるといふ者もあつたが軍務も亦その聡明を以て適切敏速に区処され私などの希望も能く容れられた。若しあの才学を以て多くの時間を軍医学に割かれたならば軍医界がその益を享くること一層のものがあつたであらう」
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文=小出将則

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