日本防衛論は本気の転換へ

川村雄介の飛耳長目

コロナで延び延びになっていた米国海軍の元高官との会食だった。

話題は、台湾情勢からウクライナ戦争に及んだ。私が「平和って何なんだろう」と聞くと、反対に尋ねられた。「同じ質問を療養中のウクライナ兵士にぶつけた。何と答えたと思う?」。答えあぐねる私に返された回答は単純明快だった。「プーチンを殺すこと、それが平和だ」

ふと、日本国憲法の前文を思い浮かべた。曰く、日本国民は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した……。崇高だ。しかし、ここでいう「平和」が、敵国のトップを殺すことを意味するとしたら、単なる空念仏ではないか。この虚しさは、近時とみに分断が深まる民主主義国と権威主義国の平和概念の違いを思うと一層深まる。

こんな現実を目の当たりにして、戦後80年近く続いた日本の他力本願的防衛論もようやく当たり前の方向に軌道修正されつつある。

刷り込みのように憲法9条を墨守するように教えられてきた世代は徐々に引退している。昭和時代後半には、防衛や軍備の必要性を唱えると反動・極右のレッテルを貼られたものだ。「絶対的平和主義」しか許されなかった。

だが、いまのわが国を支えているのは、国が衰亡して他国に追い抜かれ、成長が止まった時代に生きている世代だ。彼らは、もはや日本を大国とは思っていない。ミサイルを庭先に撃ち込まれても、領空を無許可の外国軍用機が通過しても、遺憾だ、許せないとコメントするだけの犬の遠吠えのような国家であり、これではわが身が危ういと痛感している。

先の元米海軍高官は、自衛隊との向き合い方が2015年以降、劇的に変わったという。この年、日本は平和安全法制を敷いた。従前の極端に狭い防衛の概念を拡大し、集団的自衛権に道を開いたものだ。これによって、防衛に対する日本の責任が増し、日米安保の下での日本の位置づけが高まった。

元高官は指摘する。「平和安全法規制前に、日本の領内で米軍機が何回か墜落事故を起こしたことがある。地域の住民や日本のマスコミは米軍帰れの大合唱だった。亡くなった米軍パイロットにはお悔やみひとつない。遠い異郷で他国の守りにつきながら死んだ兵士が、こんな目に遭ってはやっていられない。人任せで、自分で自分を守ろうとしない国となど、対等に付き合えなかったよ」。

半面、ベトナム戦争以来、ともに戦を経験してきた韓国軍はリスペクトされてきたそうだ。「戦友かそうでないかは天と地の差なんだ」
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文=川村雄介

この記事は 「Forbes JAPAN No.102 2023年2月号(2022/12/23発売)」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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