ある瞬間、誰かに見られているような気がして、そちらを向くと、たしかに誰かが自分を見つめていたという体験である。
また、家族や親友など、気心知れた相手と一緒にいるとき、何も言葉を交わさずとも、その考えが伝わってきて、同時に同じ言葉を発したという体験、いわゆる「以心伝心」の体験は無いだろうか。
そして、ふと、理由もなく何かの「嫌な予感」や「胸騒ぎ」がしたら、実際、その後、悪い出来事が起こったという体験は無いだろうか。
実は、こうした体験は、多かれ少なかれ、誰もが持っている。それゆえ、昔から、小説などでも、「ふと、視線を感じて」という描写や、「以心伝心」「悪い予感」などの表現は、当たり前のように使われてきた。
しかし、一方、現代の科学は、こうした「視線感応」や「以心伝心」「予感」などの体験は、科学的根拠の無いものであり、「単なる偶然」「何かの錯覚」「思い込み」にすぎないと解釈している。
また、いまも多くの人々は、人生における「運気」の存在を信じ、しばしば、「運が向いてきた」や「運が無かった」という言葉を、当然のごとく使う。さらには、「占い」というものを信じ、人生の節目で、易や四柱推命など、何らかの「占い」をしてもらう人も、決して少なくない。
しかし、当然のことながら、現代の科学は、こうした「運気」というものの存在は認めておらず、「占い」というものの科学的根拠も認めていない。
では、こうした「視線感応」や「以心伝心」、「予感」や「運気」「占い」といったものは、全く科学的根拠の無いものであろうか。それらは、「単なる偶然」「何かの錯覚」「思い込み」にすぎないものであり、それらを信じる人々は、非科学的で迷信に惑わされやすい人々なのであろうか。
だが、目を転ずれば、「科学」ではなく、「宗教」の世界では、これらの「不思議な出来事」や「神秘的な現象」は明確に存在するとされてきた。そして、現在も、地球上の圧倒的多数の人々が、何らかの「宗教」を信じているのである。
さらに、この「科学」と「宗教」の対立は、「死後の世界」の存在や「神」の存在という点において、それを否定する「科学」と、肯定する「宗教」の間で、最も鮮明かつ先鋭的なものとなっている。