「すべては渋谷のために」
事業は「強盗慶太」の異名を地で行くかのように拡大を続ける。買収を繰り返すなか、五島が「すべては渋谷」と言い切るその街に、関東発のターミナルデパート「東横百貨店」を開業する。これと前後して、五島は日吉台の土地を慶応義塾大学に寄付(現在の同学日吉キャンパス)、府立高等学校(東京都立大学の前身)を目黒区八雲へ、東京青山師範学校(東京学芸大学の前身)を世田谷区下馬に、それぞれ誘致。東急沿線の学園都市化も進めていく。
そんな矢先、五島が逮捕される。昭和9年の東京市長選で、贈収賄の嫌疑をかけられたのだ。最終的には無罪の判決を受けたが、事業拡大の絶頂期に五島はおよそ半年間の拘置所生活を余儀なくされる。
「大抵の者は神経衰弱になり、ある者は壁に頭を打ち付け自殺し、ある者は気狂いになる。獄中はそういうところだ」
五島はこう語ったが、真骨頂はこの後の言葉だ。
「獄中では人間の修練が問われ、修養が問われる。信念と意志が無い者はダメになる」
この信念と意志が、人間・五島を支え、実業家・五島を誕生させた。
戦後は、西武グループ創業者の堤康次郎と「箱根山戦争」「伊豆戦争」と呼ばれる縄張り争いを繰り広げる。最後の最後まで観光地を巡って攻防を続け、和解することはなかった。だが、2人の御曹司──五島の長男・昇と、堤の長男・清二は、父親の代とは異なるやり方でそれぞれ事業を発展させ、また、融和的な関係を築いた。
五島が愛してやまなかった東急の聖地、渋谷はグループ創設100年のいまもなお、さらなる成長を遂げようとしている。
五島慶太 年譜
1882 長野県小県郡青木村に生まれる。
1911 東京帝国大学を卒業。29歳で農商務省に入省。
1913 鉄道院に転属。
1920 鉄道院を退官し、武蔵電気鉄道常務に就任。
1922 目黒蒲田電鉄専務就任。
1934 地下鉄敷設のため東京高速鉄道を発足させる。渋谷に東横百貨店開業。
1936 東京横浜電鉄、目黒蒲田電鉄取締役社長に就任。その後、京浜電鉄、小田急電鉄を買収。
1942 東京急行電鉄に社名変更。
1944 東条内閣で運輸通信大臣に就任(東急電鉄社長は辞任)。
1952 東急電鉄会長に就任。
1955 五島育英会を設立。
1959 77歳で死去。
児玉 博◎1959年生まれ。大学卒業後、フリーランスとして取材、執筆活動を行う。2016年、『堤清二「最後の肉声」』で第47回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。単行本化した『堤清二 罪と業 最後の「告白」』の ほか、『起業家の勇気 USEN宇野康秀とベンチャーの興亡』『堕ちたバンカー 國重惇史の告白』など著書多数。