【対談】福武英明×内藤礼 幸せの定義を拡張する「人×自然×アート」の可能性


人々の幸せの定義を拡大する


福武:何よりもうれしいのは、島の人たちが、自分たちの島を誇りに思ってくれていることです。以前、出身は「香川県」と言っていた島の人たちが、最近では「直島」や「豊島」と言ってくれる。産業廃棄物のイメージも払拭され、風評被害に遭っていた特産品の「豊島みかん」も堂々と売れるようになった。もちろん私たちが地元の人に信頼してもらうに至るまでに長い時間がかかりましたが、アートや他者が介在することによって、自らの魅力に気づけたりするものだと思います。

内藤:作品から感じられるものに、「肯定感」もあるかもしれません。人が幸福であることを知る。それは、アートのような、何かが介在すると可能になることかもしれません。よい作品は、「豊かな空っぽ」ではないかと感じます。


「信の感情」 東京都庭園美術館、東京 2014年より 内藤礼《ひと》2014年、木にアクリル絵具 (写真/畠山直哉)(c)Taka Ishii Gallery


「内藤礼:すべての動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している 2022」(同展覧会は、2023年1月22日まで開催中)より。2022年、神奈川県立近代美術館 葉山《母型》2022[2009]年 水、ガラス瓶(写真/畠山直哉)(c)Taka Ishii Gallery


福武:新しいものを創る、ということは従来の社会的価値やものの見方を少し変えてみる、ということだとも思うんです。例えば、冒頭に言った「家プロジェクト」は、わずか人口3000人ほどの島の、使われていない古民家に、人ではなくてアートを住まわせ、アートギャラリーにしてしまおうという荒唐無稽なもの。展示している作品を替えもしなければ、売ってもいない。

本来、人が住むはずの家や、定期的に作品を展示し作品を売っていくギャラリーに対して、別の角度から価値を見出すという例ですね。豊島美術館も一つの美術館ではありますが、内藤さんが言う「豊かな空っぽ」のような空間でもあり、もうそれ自体がアート作品です。

いろいろな角度で世の中を見ていきながら解釈を加えていくことで、人々の幸せの定義を拡張できたりするのではないか、と思ってやっています。

内藤:アートは人の心の問題です。そして太古の昔から、人が手放したことはない。アートに限らずよいものは、それを受け取る人の多様な感じ方を受け止めながら、残っていくのだろうと思います。

福武:そうですね。僕たちは「アートは地域のインフラである」ということを信じてやっています。水道・電気やガスと同じように、人類が生きていくうえで、必要不可欠でなくてはならないもの。

いま、福武財団とベネッセ、ふたつの組織形態で活動している理由は、最終的な目的は同じ「よく生きる」なのですが、そこに至るまでの登り方がまったく異なるからです。役割やプロセス、見ている時間軸や、短期的な世界観や価値観は異なるが、目指しているものは同じなのです。

占部:豊島は産廃事件があって、いまだに環境回復に時間がかかっている。いろいろな方をお連れすることも多いのですが、やはり、その問題を知ると「反省」といったような、暗い気持ちになる。しかし、そういった情報を入れた後で、豊島美術館に行くと、いまのお言葉をお借りすると、「空っぽ」になる。その後に豊かな気持ちになって、それが次につながる、と思えるんです。

内藤:「空っぽになる」とは可能性が生まれることだと思います。充実と同じ。
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編集=岩坪文子、荒川未緒

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