ビジネス

2022.12.19

ダイエー創業者、中内㓛さん|私が尊敬するカリスマ経営者

ダイエー創業者の中内功(イラストレーション=フィリップ・ペライッチ)


こうした熾烈な戦いを続けながらも、ダイエーは成長し続けた。主婦の圧倒的な支持を得ていた。72年には米ハワイのショッピングセンター「パールリッジ・センター」に米国の1号店を出す。

このころのことだ。ある経済人が、中内と夕食をともにしていた。食卓で、目の前に座る中内がおもむろに時計に目をやり、離れた席に座っていた秘書に声をかけた。

「ハワイの天気はどうなんだ?」

インターネットがある時代ではない。携帯電話もない。秘書は本社に電話をかけハワイの天気を確認、中内に報告する。ハワイは雨だった。

「おい、雨ならば店先の雨カバーは大丈夫なのか? 品揃えは雨用に替えているのか? おい、値段も変わるんだぞ」

秘書ははじかれたように再び本社に電話をし、中内の注意を伝えたという。

雨が降れば、主婦の気持ちも変わる。気持ちが変われば、献立も変わる。雨の日に売れる商品、売れない商品。差がはっきりと出る。中内は出店している地域の天気を朝一番で確認しては、各店舗に向けて指示を出すことを日課にしていた。

店舗に出向いた折には、さらに細かい指示が入る。値札を一つひとつチェックし、「なんでこの値段なんだ? あと5円下げろ」と、秘書にもたせていたフェルトペンを取り上げて値札の数字を消し、5円下げた値段を自ら上書きしていった。

かと思えば、陳列棚の前で、何度も膝を折るなど奇妙な仕草を続ける。

「おい、これじゃ背の高い人にしか商品が見られないぞ。もう一段低くしないと、小さな人には見にくいぞ」

中内は徹底して現場の人だった。現場に足を運ぶことで主婦と同じ感覚を身につけようとしていた。主婦の感覚とズレることを、恐れていた。

しかし、時代はダイエーを肥大化させていく。駅前に出店するケースが増えていく。駅前という一等地は、客も呼び寄せたが、それ以上に土地の価格を引き上げていった。

「主婦の店」のはずが……


ダイエーが出店するたびに土地は値上がりし、その土地を担保に、銀行はさらなる融資をした。ダイエーの客はいつしか、主婦から銀行に変わってしまったかのようだった。

中内が切り開いた“安売り”の世界は、いまや当たり前となっている。だが、中内という挑戦者がいなければ、小売業界に安売りが定着することはなかっただろう。

安さを追求し、流通の壁に挑み続けた中内の功績を、生誕100年を機に、いま一度思い起こしてみたい。

中内 功 年表


1922 大阪市に生まれる。
1941 神戸高等商業学校(現・兵庫県立大学)卒業。
1943 招集を受け陸軍入隊。
1945 フィリピンから復員。
1957 大阪市に「主婦の店ダイエー」を開業。
1972 小売業売上高日本一達成。
1975 「ローソン」1号店開店。
1980 売上高1兆円突破。リクルートや球団などを次々買収。売上高3兆円の流通王国を築く。
1988 流通科学大学を創設。
1991 経団連副会長に就任。
1995 阪神・淡路大震災で系列店約100店が被災。
1999 社長を辞任。
2004 産業再生機構がダイエーを支援。
2005 83歳で死去。

児玉 博◎1959年生まれ。大学卒業後、フリーランスとして取材、執筆活動を行う。2016年、『堤清二「最後の肉声」』で第47回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。単行本化した『堤清二 罪と業 最後の「告白」』の ほか、『起業家の勇気 USEN宇野康秀とベンチャーの興亡』『堕ちたバンカー 國重惇史の告白』など著書多数。

文=児玉 博

この記事は 「Forbes JAPAN No.099 2022年11月号(2022/9/24発売)」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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