民間から社会を変える革命家だった
こうした経歴から、保守的な一部の経営者から「2代目が道楽で経営をしている」と揶揄されもしたが、経営者としても異彩を放っていた。
西武百貨店が火事騒ぎを起こしたときのことだ。翌日に堤は、本来ならば消火用水をかぶって売り物にならない商品を、特別価格で大々的に売り出した。幹部らは眉をひそめたが、堤の狙いは当たり、いままでにないほどの売り上げを記録する。
「うちは三越じゃない。高島屋じゃない。だから、三越や高島屋にないもので勝負するしかない」
文化や芸術をもち込んだのも、堤にしかできない芸当だった。いまでは当たり前だが、ショッピングモールに映画館、レストランなどを擁した複合商業施設を世に提供したのも堤だった。この施設を見た時代を代表する評論家、吉本隆明は「民間が主導して社会を変える。革命という言葉はここに生きていたのか」と感嘆したほどだった。堤は、会員だけが入場を許されるデパートの可能性を、真剣に考え続けていた。また、商品のいっさいない、“サービス”だけを売りにするデパートを実現できないかとも考え続けていた。
こうした問いを投げかけられるたびに、役員らは黙るしかなかった。そんなデパートを考えたこともなかったからだ。
セゾン文化の象徴のひとつが、1987年にオープンさせたラグジュアリーホテルの嚆矢「ホテル西洋銀座」だった。わずか77室。すべての部屋にコンシェルジュが付いた。最も安い部屋でも当時一泊7万円以上だった。これも堤の思考した革命のひとつだった。
堤の抱える矛盾が、それは尋常ではなく大きなものだったが、堤をわかりにくくさせていた。しかし、それもまた堤だけがもつ魅力でもあったのだが……。
家庭の複雑さ、父・康次郎に対する葛藤、憎悪、異母弟義明への軽蔑、対抗心。堤が背負った運命と宿業とが、堤を希代の経営者にもし、優れた文学者へも道を開いていった。
堤にとって、詩、小説はもちろん、文化、芸術、そして経営はすべては実験であり、すべては表現であった。
堤 清二 年譜
1927 西武グループ創業者の堤康次郎と青山操の間に生まれる。
1951 東京大学経済学部卒業。肺結核で療養後、父の秘書に。
1954 西武百貨店入社。
1961 34歳で同社社長就任。詩集『異邦人』で室生犀星賞。
1963 西友ストアー(現西友)代表取締役社長。
1971 西武流通グループ(セゾングループ)を旗揚げし、西洋環境開発、パルコ、ファミリーマートなどを擁する一大グループに成長させる。
1984 小説『いつもと同じ春』で平林たい子文学賞。
1991 セゾングループの経営が破綻、代表を辞任。
2013 11月25日、86歳で逝去。
児玉 博◎1959年生まれ。大学卒業後、フリーランスとして取材、執筆活動を行う。2016年、『堤清二「最後の肉声」』で第47回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。単行本化した『堤清二 罪と業 最後の「告白」』のほか、『起業家の勇気 USEN宇野康秀とベンチャーの興亡』『堕ちたバンカー 國重惇史の告白』など著書多数。