TVコメンテーターになって気づいたこと

川村雄介の飛耳長目

日英の文化交流基金事務局長であるジェイムス氏が、マスク越しに苦笑いした。

「2年半ぶりの日本ですが、日本中が神経症にやられているみたいだ」。東京都内はもちろん、数日滞在していた関西でもほぼすべての日本人はマスク姿、往復の新幹線車中でもノーマスクの人はいなかったという。「英国では感染爆発があり政府は注意を喚起した。でもマスク姿はまれでした。日本は世界的には感染が少ないほうなのになぜ? これじゃあ、国が危ない」。

コロナであらためて痛感させられたのはメディアの恐ろしさである。クルーズ船以来、異様なまでにコロナ危機を叫ぶ批評家やそれに便乗したようなワイドショーで、日本中が重苦しい空気に覆われた。確かに未知のコロナは恐ろしい。私もあたふたと3回のワクチン接種を済ませ、「三密」を避けてきた。

経済活動を維持しなければという悲鳴に対しては、人命と金もうけのどちらが大切なのかと二択を迫り、マスクを着用しない者、外出する者は不心得の極みとばかり、毎日連呼された。冷静な議論は吹き飛ばされた。時の政権もこれで倒れた。一見言論の自由が保障されているようでいて、この国のde factoは違う。

昔からメディアによる大衆扇動は後を絶たない。世の中の空気を先取りするようなデマゴーグに多くの人が乗せられてしまう。では扇動者たちは反権力か、というとそうとは限らない。とにかく、騒がせて一般受けを狙うだけ、としか見えない。

文豪バルザックの言葉が浮かぶ。「あるものすべてを否定し、ないものすべてを褒めあげるというのが、この批評家のやり方である。長所を見つけると、長所でもなんでもないと断言し、非難攻撃をそこに集中する」(『ジャーナリストの生理学』講談社学術文庫)。19世紀のパリに生息した若手批評家の姿を辛辣に描写した下りだが、現在のテレビコメンテーターの一部には、そのまま当てはまりそうである。

他方で、報道する側になると見方はかなり変わる。今春から、あるテレビの社会経済情報番組に出演している。レギュラー陣には経済報道の専門家が何人もいるので、番組構成の打ち合わせでは「米国のインフレと中国経済の行方」「円安と日銀の金融政策」「やはり地方再生だ」と喧々諤々になるが、プロデューサーが待ったをかける。そんな小難しい話題に視聴者は興味ない、やるなら他局の経済専門番組でお願いします、と。

結果選ばれたテーマは何か。「納豆を一番消費している県は?」「80歳を過ぎてラーメン店を起業」、「金沢カレーは有名か」、それに「海鞘のご当地アイドル」などなど、である。

経済統計や専門論文、海外経済誌を読み込み、しっかりしたコメントをしなければと身構えていた私たちは、肩透かしを食ったような思いにとらわれる。

だが、間違っていたのは私たちのほうだったかもしれない。
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文=川村雄介

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