知人の一人によれば、家庭の事情でシビルチョが守れない場合、その信者は代償として、教会主催の奉仕作業や行事に主戦力として駆り出される。仏教界でも、日本よりも厳しい「お布施」の取り立てがあるという話も聞いた。信者の数とそれに比例した財力があれば、パワーも生まれよう。韓国で、旧統一教会による布教活動が目立たないのも、強大な力を持つカトリックやプロテスタントが新興勢力の台頭を許さないという事情があるようだ。
逆に考えると、日本人の私には「そこまで苦しみながら、教会や寺に通う必要があるのか」と思えてしまう。知人の一人は「宗教に救いを求めざるを得ない、韓国の事情もある」と話す。旧統一教会が文鮮明氏によって1954年に創始されたように、韓国では国土が荒廃した朝鮮戦争(1950~53年)後に新興宗教が相次いで生まれた。当時の社会不安が背景にあったとされる。当時、米国からキリスト教の宣教師が大勢やってきて、教会を拠点に焼け出された市民の救済活動に当たったという。また、1960年代から80年代にかけ、教会は軍事独裁政権に抵抗する市民の「駆け込み寺」にもなった。
こうして教会や寺院は、韓国社会にとってなくてはならない存在になっていった。私が特派員時代に、秘密の南北協議が行われていないかどうかを確認するとき、教会のお世話になった。韓国政府で秘密交渉をやりそうな当局者が通う教会に目星をつけておき、そこの信者に当局者の出欠状況を確認してもらっていた。果たして、出張でもないのに教会に来ないとき、その当局者は秘密交渉を行っていた。
ただ、韓国の知人の一人は「それだけ、韓国が生きづらいということだよ。神や仏にすがらないと、やっていけない世の中なのさ」とも語った。
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