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2022.10.07 17:00

アントニオ猪木が無人島で薦めた「魂の一冊」──編集長コラム

故・アントニオ猪木 / Getty Images

79歳で亡くなったアントニオ猪木さんのことでずっと記憶に残っている場面がある。1997年夏、パラオ共和国の無人島で2人きりで会話をしたときのことだ。


「アントニオ猪木の写真集をつくるから、パラオでの合宿に同行して原稿を書いてほしい」という出版社からの依頼を受けたのは、1997年、私が20代の駆け出しのライターだった頃だ。スポーツライターではないし、プロレスは門外漢なので戸惑いつつも、「ま、何とかなるよ」という出版社幹部の気楽な返事に背中を押されてパラオに飛んだ。

海岸のそばに立つコテージに行くと、トレーニング合宿をしていたのは、初代タイガーマスクの佐山聡、五輪メダリストの柔道家で、レスラーへの転向宣言をしたばかりの小川直也、そしてアントニオ猪木と若いレスラー数人だった。子どもの頃に読んだ人気漫画『プロレススーパースター列伝』が目の前に現れたかのような大物たちである。

一方、取材陣の面々は、それまでテレビ番組の宣伝用のスチール写真を専門としてきた写真家の橋本田鶴子さん、スポーツライターではない私、アイドル写真集の若い編集者という不慣れなチームだった。橋本さんはこの仕事をチャンスと捉え、懸命に猪木さんにいろんなポーズを注文してはシャッターを切り続けた。余談だが、この写真集の仕事が終わった後も橋本さんは猪木さんに食い込み、独自に写真集を出版。そして2人は公私にわたるパートナーとなり結婚した。2019年に橋本さんががんで帰らぬ人となったことを猪木さんは公表している。



パラオでの橋本さんの奮闘に比べて、私の取材は心もとないものだった。トレーニングに同行しながらも深い話を聞き出すことができない。日が暮れると、コテージの食堂でテーブルを囲み、佐山聡さんが語るメキシコ修行時代の話に全員が抱腹絶倒し、猪木さんが口を大きく開けて豪快に笑う。その姿は家族を見守る父親のようでもある。毎晩、私は佐山さんの話に魅了された。

しかし、本来、私が食い込むべき相手は「アントニオ猪木」である。書かなければならないストーリーの切り口をまったく拾うことができず、焦りが募るまま日数が過ぎていった。

ある朝、ビーチでの運動が終わった後、猪木さんらと無人島に行ってトレーニングをしようということになった。小型船に私も同乗して海を渡ったものの、島に上陸してしばらくすると雨が降り出した。猪木さんと私は木陰に入り、2人きりになった。

「せっかく島まで来たのに残念ですね」。そう話しかけると、猪木さんはこう言った。

「いや、そんなことはないよ。子どもの頃、ブラジルの農場で働いていると、こんなふうに雨が降ってくることがよくあってね。雨を避けて大きな木の下に座って、雨がやむのをじっと待つんだよ。雨音をずっと聞きながらね」
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文=藤吉雅春

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