国民的合意が得られるのは「大喪の礼」だけでは?
結局、中身がどうあれ、「国葬新法」による事態の改善は見い出しにくいというのが、今の時点での私の意見です。
そもそも、「特定の人の死を国家として特別に悼む」ときには、評価を控えるべきときに評価せざるを得ないという根本的な問題が起きます。国民栄誉賞や叙勲などの場面とは違う難しさを持つ点です。
評価せずとも国民的合意を調達できるのは、結局のところ、天皇そして上皇の「大喪の礼」に限られるのではないでしょうか。それは、「人」に焦点をあてるのではなく「立場」に焦点をあてた制度だからであり、様々な方のご努力のもと皇室制度自体が今なお安定した国民的合意に支えられているからだと思います。
そのように考えると、結局、国葬は「大喪の礼」に限るのが自然かつ現実的ということになってくるのではないでしょうか。
いずれにしても、そもそも国葬は必要なのか、安定した国葬は可能なのか、という観点から、落ち着いた議論に付されることが必要です。
ただ、今回の国葬決定の理由に「弔問外交」を挙げたのは大変よくなかったということを付記しておきます。国家への功績をたたえて国家として弔うと決断したなら、海外からの要人で誰が来るとか来ないとか、諸外国の判断に成果が左右されるような理屈付けをするべきでなかった、国家として軽率だったと、岸田政権にはその点も反省としてほしいと思います。
「国家と国民が交わる場」の設定が苦手な日本社会
最後に、9月27日、私自身は国葬への出席を遠慮させて頂きました。「元衆議院議員」としてお呼びかけ頂いたけれど、今は私人だし、「元」の立場で公的な儀式に参加するのが余り好きではないので。ただ、私なりに静かに安倍元総理の死を悼みつつ、考えをまとめて過ごしました。
国葬が終わり、いよいよ制度の議論になるかもしれないので、少しでもその一助になればと思って記したのが、この文章です。
「国葬」はこれまで議論されてこなかったけれど、9条や皇室制度などと並んで、国家と国民が交わる重要なテーマです。日本は、国家と国民が交わる場の設定が苦手な社会かもしれませんが、避けては通れません。
だからこそ私は、国家に国民が組み込まれるのではなく、国民ひとりひとりが自分の中に国家観を持ち、自分自身が国家の主権者である意識を持つことが大事だと考えていますが、この話はまた別の機会に。
最後までお読み頂きありがとうございました。
(本記事は、The Tokyo Postからの転載です。)