まわりの人との関係は存在しない
市民生活においても、自分とまわりの人との「関係」は存在しないようなのです。
たとえば、自分のつける番号が「3」だとします。でもその「3」は、ほかに「4」とか「6」とか「8」とかいう「3以外の数字」がある中の3ではない。相対的な3ではないのです。
少し話を大きくしますと、たとえば政治の世界でも、国際法ではこうなっている、もともと何年に協定があったよね、こういう条約を交わしたよね、という経緯や履歴は、まったく意味をなさないといってもいいくらいと思います。
大切なのは現在であり、「今の自分」だけです。「何年にこんな条約に調印した」といった歴史的なレコードは、彼らの「現在」から逆算すれば意味をなさないのかもしれません。
ロシアの歴史は時系列ではない、「伝記のかたまり」だ
こういった文化はロシアの人々の歴史観、歴史の教え方、学び方の違いにもつながっています。
日本人は自国の歴史も世界史も、何年に何があって……といった「時代の流れ」として学びますよね。
ですが、ロシアの歴史は時系列には並んでいない。ロシアの子どもたちにとって、歴史は「英雄物語」なのです。この戦争の時にこの人が活躍したという、いわば「伝記の塊」です。歴史は過去から現在に時系列的に流れるというよりは、英雄、登場人物が強調されて、前後の出来事との関係はあまり語られない。
ですから、ロシアで書店にいくと、「伝記もの」の本の量がとにかくものすごいんです。
学校でも、われわれのように、「年代を暗記する」ことは、ロシアの子どもたちはまず、課されないですね。
学校が名門とされるか人気校かどうかも、偏差値ではなく、祖国のために戦った有名な人をどれだけ多く輩出したか、国にとってのどんな功労者の出身校であるかが評価される傾向があります。実際に校舎を訪れても、過去の戦争で活躍した英雄の出身校であることを誇るかのごとく、廊下などには多くの写真が並べられていますね。
「プーチンの頭の中」は?
たとえば私は、プーチン大統領の頭の中にも「今」しかないと思います。未来も過去もない、今起きている現実に対して、その後どうなるか、という時制や文脈の感覚がないんです。
──1984年頃のソ連時代、留学していた当時、私はあるソ連(ロシア)映画を観に行ったことがあります。
高校生くらいの男の子が小屋の中で、女の子にキスをするシーンがありました。キスをする前に女の子は、2人の頭の上についていたオレンジの裸電球を消して、と頼みます。
そうすると男の子は手元にあった枝を取って、バシッとばかりにその電球を割ったんです。
彼にとっては「今」だけが大切で、後でまた明るくしたくなったときに困らないか、後で片付けが大変じゃないか、などはまったく考えない、それが伝わってくるような印象的なシーンでした。その少年の行為を通して、ロシアの人たちの究極の快楽主義、瞬間主義を痛感したことを覚えています。