ハワイに移住して以来、ハワイの「新一世」500人以上をインタビューしてきた筆者は、これまでも特に印象的だった人物を紹介してきたが、新一世の人たちにはそれぞれハワイ移住を果たすまでの劇的なストーリーがある。今回もその1人を紹介したい。
銀行の経営破綻からハワイに!?
「慶應」と「ゴルフ」の人脈で、ハワイ移住という夢を2度も掴み取った人物がいる。吉田太郎さんは、ハワイで100年以上の歴史を持つ日系新聞「ハワイ報知」の社長。彼のハワイ生活は2014年から始まっている。
吉田さんは、慶應義塾大学ゴルフ部の出身。幼稚舎からの生粋の慶應ボーイだ。それだけではない。父親も兄弟も慶應のゴルフ部出身。ここまで書いた時点で、日本社会ではエスタブリッシュメントに属する人間だという印象を持たれた人も多いだろう。
吉田太郎さん
もちろん、筆者もそう思っている。大学受験で国立大学に落ち、早稲田と慶應に滑り止まって前者を選択した筆者からすると、「選択」する機会さえなく(もちろん受験もなく)エスカレーターで「慶應社会」を歩んできた人間など別世界の人間に思えてしまう。それにゴルフも加わるのだから、まったくそれ以上語る言葉もない。筆者が通った都立高校にゴルフ部などなかった。
吉田さんが大学を卒業したのは1992年。バブル真っ盛り、体育会出身の吉田さんは苦もなく日本長期信用銀行(現・新生銀行)に就職する。ところが、98年にまさかの経営破綻。ここから吉田さんの波乱万丈の人生がスタートするが、最初に手を差し伸べたのは慶應の仲間だった。
日本だけでなく世界各国でレストランを展開する飲食大手「WDI」の社長は同じく幼稚舎からの慶應ボーイ。旧知の仲だったそうで、その誘いを受けて飲食業界に転職する。この転職がハワイとの最初のつながりをつくることになる。現在ではハワイ随一の有名ステーキ店となった「ウルフギャング・ステーキハウス」を開店する準備のため、ハワイ駐在を命じられたのだ。2008年のことだった。
ニューヨークで生まれたウルフギャング・ステーキハウスは、当時WDIと組んで日本出店を目論んでいた。ところが、狂牛病の流行と重なり頓挫してしまい、ならば、日本人観光客の多いハワイで試験的にオープンしてみようということになった。それが吉田さんの初ハワイ生活につながる。時代も味方していたわけだ。
努力だけでなく運と人脈も大きく作用するのがハワイ移住だ(撮影:岩瀬英介)
ハワイでの出店には困難も多々あったが、何とか2010年にオープンに漕ぎつけ、それと同時に日本への帰任命令が下った。ハワイには学生時代にゴルフ部の合宿で訪れたのが最初という吉田さん。今度は仕事という形で訪れたハワイだったが、その印象は当時と同じく“楽園”だったという。
アロハスピリッツに代表される人々のやさしさがビジネスでも身に染みて、またハワイの心地良い風の中でプレイするゴルフにもますますハマっていった。2年でビジネスはひと段落したものの、残ったのはハワイ生活への憧憬。またいつかは戻りたい。そんな気持ちのまま日本に帰国した。