ビジネス

2022.08.02 19:00

ナスダックに上場した日本人社長は、事業のタネをどう見つけたのか


中道:それまでもすごいですね。韓国は何か理由や繋がりがあったんですか。

東田:私がコリアンジャパニーズという意味では繋がりがありますが、ビジネス的な繋がりや人脈は特になかったです。

当時、日本の消費者金融業界で一番大変だったのが、運用の上限金利が年間29.2%に制限されたことです。それが高いという議論は置いといて、我々の規模ではそれではとてもやっていけなかった。じゃあ上金利高く取れる国はどこかといった時に、アメリカと韓国だったのです。アメリカは、自分が持っているノウハウでいけそうだなと。韓国は当時上限金利がなくて、極端な話、年間100%でも合法だったんです。

どっちかやりたい、やらないといけないと思ったのですが、当時の私にとってアメリカは遠く、英語もできないし、全く分からない所だったんです。それに、アメリカの法律・規制等々を自分なりに調べると、州ごとに違う。もうそれだけで頭が痛くなってしまって。

一方で韓国は近いですし、先祖の国だとも思っていました。サラ金って、日本でもイメージ良くないですが、韓国もやっぱり良くない。でも良くないなりに私は父親から受け継いだ会社なので、「いや違う、これもサービス業なんだ」という非常に高い自負心を持っていて。それを韓国に伝えたいという想いもあって、2002年2月29日に会社を設立しました。


OKB phuaorneer / Shutterstock.com

中道:多少ルーツはあるにせよ、ゼロからスタートですよね? そういう、外に出ていくマインドは昔から持っていらっしゃるんですか。

東田:全くないです。名古屋にいた頃、東京に出張があっても日帰りで帰ってくるほど、東京、怖い、大阪もアクセントキツくて怖い……と思っていて。名古屋から出るなんて考えたこともなかったです。

僕も含めて、日本人の多くは、日本で生まれ育ったらこの先もずっと日本っていうのが当たり前に染みついてますよね。一方で、仕事が立ち行かなくなり何かしなきゃいけないというときに、名古屋で業種を変えて挑戦するよりは、自分がよく知ってる業界で言葉の壁を越えた方が勝率高いのでは、と考えました。

中道:そこから今度はニュージーランドに移住。これもまた未開の地だったんですか。

東田:韓国では冬休みや夏休みに子どもを海外へ英語教育に出すんです。アメリカ・イギリス・オーストラリア……、我々もそれに倣って、たまたまニュージーランドに知り合いがいたので、子供たちを送りついでに行った私も気に入ったんです。

ビルとコンクリートばかりのソウルとは違う広々したところに取り憑かれて。引退するならニュージーランドと思ってました。何か特別にここに市場があるとか、ここで勉強したいということではなく。

中道:その時は引退のことも少し想像しながら、そのままニュージーランド良いなーぐらいの感じだったんですか。
次ページ > ニュージーランドでの新しいビジネス

文=小谷紘友 編集=鈴木奈央

タグ:

連載

VISION TO THE FUTURE

ForbesBrandVoice

人気記事