フラッグシップに近い情報筋によれば、07年に同社が現在の事業モデルを採用するようになって以来、21年前半までの純内部収益率(IRR)は約40%だった。モデルナは明らかに、この数字に大きく貢献してきた。モデルナの株価は最近下落に転じたとはいえ、20年3月以降8倍になった。
21年8月に医療メディア「スタット」が発表した調査によると、モデルナに支えられ、12年設立のフラッグシップの4つ目のファンドは、最も業績のよいバイオテック系ベンチャー投資会社17社の首位につけており、投資家に15倍のリターンをもたらすことになりそうだ。
アフェヤンはこの成功を生かして新たに巨額の資金を調達している。昨年6月には新しいファンドのために34億ドルを調達。バイオテクノロジーと疾病治療の分野への投資が活況な時節とはいえ、大きな金額だ。この新しい資金を手に、フラッグシップは疾病治療や農業、栄養の分野への投資を増やしている。
より個別化された予防医療である先制医療や、将来の感染症の脅威に備えるヘルス・セキュリティ(健康危機管理)に的を絞った新部門も立ち上げた。パンデミックがなければ、これほどこの分野に打ち込まなかっただろうと、アフェヤンは語る。
現金を得たことで、アフェヤンの並行起業の事業モデルも、これまで以上に大きく、迅速に規模を拡大できるのかを試されている。フラッグシップでは、一握りの社内チームを頼りに特定の分野のアイデアを調査し、企業を立ち上げてきたが、事業が拡大するにつれ、アフェヤンは同社のパートナーと新しいスタートアップ企業のCEOの両方として、大勢の有能な企業幹部を引き入れ、助力を得てきた。
いまでもモデルナの会長職を務め、フラッグシップが関与するほかの6社の取締役に就いているが、今後はより大きな組織を経営しながら、事業の推移を把握し続ける方法を見つける必要に迫られるだろう。
不安定さに抵抗がない移民だからこそ
アルメニア人であるヌーバー・アフェヤンの一族は、安住の地を求めて国から国へと移り住んできた。1915〜16年のアルメニア人ジェノサイド(大虐殺)では、オスマン帝国で暮らしていたアルメニア人キリスト教徒最大120万人が殺害されたが、その間、父方の祖父と大叔父は2度も連れ去られたという。
アフェヤンの祖父はブルガリアに逃れ、父はそこで生まれた。その後、ブルガリアを共産党政権が支配するようになると、一家はギリシャへと逃れ、50年代初頭にレバノンに腰を落ち着けた。
「父は、いまの私と同じような人生を送りました。母国ではない国で、常に自分の価値を証明しなければならなかったのです」(アフェヤン)
アフェヤンは子供時代をベイルートで過ごし、75年に内戦を逃れて一家でカナダに渡った。マギル大学で化学工学を学び、マサチューセッツ工科大学(MIT)で87年に生物化学工学の博士号を取得。89年、バイオテック企業で使われる機器を製造するパーセプティブ・バイオシステムズを設立した。
1億ドルの収益を稼ぎ出すまでに成長させると、98年に3億6000万ドルで科学機器の複合企業、パーキン・エルマーに売却。同社のライフサイエンス部門の後継企業に当たるアプレラの最高業務責任者(CBO)に就任した。このとき、すでに次の一手は考えていたという。連続起業家ではなく、複数の企業を同時に立ち上げる仕組みをつくれないかと考えていたのだ。
99年、アフェヤンはフラッグシップの前身となる企業を設立し、ケンブリッジ郊外にオフィスを置いた。共同創業者のエド・カニアはベンチャー投資家で、パーセプティブの投資家のひとりだった。
「私にとっては、複数の会社を並行して立ち上げることと、それをプロセス化することは別物でした」(アフェヤン)