観光とラグジュアリーの未来 雪国の温泉宿「ryugon」の場合

温泉宿 「ryugon」


文化の盗用は、経済的・政治的・文化的に強い立場の国の企業が、逆の立場にある国の文化要素をビジネス目的に利用することです。例えば、ヨーロッパのファッション企業がアフリカの民族衣装にあるモチーフを使う場合、「文化のただ乗り」にあたり、アフリカの人々の文化アイデンティティを侵害すると炎上します。

仮に、異文化素材の利用がコミュニティに何らかの貢献をするのなら批判されることもないのですが、多くのケースではローカルの人の神経を逆なでしてしまいます。「モチーフを巡って双方に話し合い、新しい見せ方が生まれたことで文化的な自覚を促すことになった」というような展開が望ましいですが、自分の都合で他人の文化を一方的に使ってしまう場合が残念ながら多いのです。

中野さんの話から察するに、ryugonは宿と旅人と地元民との関係がうまく調和しているようですが、一般論としてこれからのインバウンドにおいて注意すべきことがあるとすれば、地元民への配慮でしょう。観光業に携わってない人に「自分たちの文化が見世物になって、商売のタネにされている」と思われた段階で、これは文化の盗用に近くなります。儲けのために、文化を切り売りしていると第三者から見えるプロセスです。

さらに悪化したところにあるのが、「オーバーツーリズム」への地元民の不満です。「私たちの人生を、生活を切り売りにされてたまるか!」と。日本であれば京都、欧州であればベネツィア、バルセロナと列挙するとキリがないです。


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新しいラグジュアリーな観光とは


ところが、実はある程度にものが分かった観光客は「他人の人生の切り売り」を見せつけられるのにはうんざりしています。その根底には文化の盗用に抱く罪悪感と共通するものがあると言えるでしょう。国境を越えずとも、都会の人が田舎の文化に接する場合でも、生じる心情です。

さらに、「切り売り」にうんざりするのは、好奇心が揺さぶられないだけでなく、ローカルの人々の尊厳を自分が十分にリスペストできているか不安だからです。観光がローカルなコミュニティの分断の引き金になっていないかどうか気になります。「自分たちのお金で、コミュニティは助かるのだから歓迎されないはずはない」という古い考えを持つとも思われたくない。

そのような人たちにとっての心地良い旅とは、ローカルの誰かの人生や生活を邪魔しない旅です。そこで、ほんとうに会ってみたい人に会うために旅をしたい。普通の生活のありようをまるごと実感したい。言語が通じるなら、限られた数の人たちと深く語り合いたい。さらに、そう実践していることに自らのアイデンティを重ねようともする。
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文=中野香織(前半)、安西洋之(後半)

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