観光とラグジュアリーの未来 雪国の温泉宿「ryugon」の場合

温泉宿 「ryugon」


スウェーデンでは近隣住民同士の協力が盛んである、とポジティブに紹介されることが多いです。要因はあの厳しい寒さにある、とも。生命の危機に晒されている状況下でお互いに助け合うのはサバイバルするための基本作法というわけです。その結果、公平であることが重視される社会になっていると評価されます。

井口さんの、「仮に温暖化で雪が降らなくなったとしても、雪国としてのDNAは残したい」はちょっと大仰にも聞こえますが、暖房を完備している現代のスウェーデンにおいても互助の精神が引き継がれているところをみると、気候条件によって生まれた文化は、環境が変化しても根強く残るのでしょう。つまり、井口さんの願望は極めて現実的です。

観光も一種の「文化の盗用」?


さて、このような文化が他の地域から賞賛の対象になったとき、観光資源と呼ばれることがあります。その土地にいる人たちは生きるに必死です。しかし、そこで結果的に生まれた習慣や考え方が、外部の人たちには好奇心を刺激するものとして目にうつる。そこにお金が落とされていく。

観光という言葉の意味を調べると、必ずしも経済的な点だけが強調されているわけでもなさそうですが、かつて日本において観光は否定的なニュアンスを多々含む言葉でした。

「生活上の必要」を動機として生まれた文化が、何らかの恩恵をもたらすとわかると、動機が「外面が良いもので、さらなる利益を得よう」に傾いていくのが人の常だからです。また、過去の人たちが残した歴史的遺産、または努力をしないで手に入れた自然の風景。こうしたことで「楽をして飯を食っている」と見なされるのでした。

この傾向は今も残っています。「日本を観光立国にしていこう」との政策が掲げられると、「他国の人が旅行中に落としていくお金を期待するまで我々は落ちぶれたのか?」と、観光立国は没落の象徴であるかのような物言いをする人がでてきます。口を開けて待っていれば、お金が降ってくる。工業、情報技術、金融分野を得意としない怠惰な人たちでも生きていける「最後の産業」であると考えるのでしょう。

いわゆる“観光地値段”と称される、高いわりに美味くもない食事、あるいは日常生活の空間に置きたいとは思わない土産物を前にした時の落胆。身体にこれらが染みついているのかもしれません。


クロアチア(Getty Images)

黙っていても湯水のようにお金が湧いてくる。そのような場所も、世界にはいくつも存在します。しかしながら、その場所の良さに惹かれて人が繰り返し訪ねてくれる。そしてその感動を他人に積極的に伝えてくれる。このような循環が起きるためには、それなりの知恵と努力を伴う投資があってこそ実現するものです。

結局、日常生活や景観がそこに生きている人の想いや考えとまったく関係なくビジネスとしてだけ利用されるとき、「張りぼてじゃないか!」と批判の対象になるのです。この批判のロジックは、「文化の盗用」と少々似ています。
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文=中野香織(前半)、安西洋之(後半)

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