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2022.07.16 19:00

エルメスの新作時計「アルソー ル タン ヴォヤジャー」とともに、今こそ旅へ

新作の「アルソー ル タン ヴォヤジャー」

新作の「アルソー ル タン ヴォヤジャー」

仕事部屋の片隅には、出番のなくなったスーツケースが埃を被って佇んでいる。見るたびに片づけなければと思うものの、それは往生際の悪さといつか再開するであろう旅への期待とを映し出す。

いともたやすく移動できただけにその反動は大きい。遠くなってしまった世界を思いながら、手に取った一冊の本に同志を見つけた。19世紀末に活躍したフランス人作家、J・K・ユイスマンスによる『さかしま』の主人公、デ・ゼッサント公爵だ。

人間嫌いからパリ郊外で引きこもりの日々を送る中、ある晩ディケンズの小説を読み、旅の天啓を得る。目指すは舞台となったロンドン。決心するや奉公人に旅荷をまとめさせ、「いつ帰ってくるかはわからない、1年か1カ月か1週間か」。ゼッサントはそう告げたのだった。

乗り込んだ馬車の屋根やトランクに降りしきる雨音に旅の高揚感を覚え、中継地パリの書店で見たロンドンの案内書にこれから始まる旅を夢想する。そして停車場のバーではイギリス人がたむろし、まるでディケンズの作中人物が集うかのような雰囲気を楽しみ、イギリスのパブを思わせる食堂で舌鼓を打った。

さあそろそろ出発の時間だ。立ち上がろうとしたそのとき、もうひとりの自分が囁いた。

どうしてわざわざロンドンまで行く必要があるのか?こうして今ロンドンの匂い、雰囲気、人々、食べ物に囲まれているのに。もし行ったとしても苦労と失望があるだけだ。なぜ若造のように旅がしたいなどと考えるのだ?

さて、とゼッサントは立ち上がり、時計を見た。家に帰る時間だ。そして疲労と困憊とともにひと晩の旅を終えたのだった。

彼は賢者か偏屈者か。確かに思想家パスカルは「人間の不幸の唯一の原因は、自分の部屋で静かに過ごすすべを知らないところにある」と書いている。

しかしながら、この物語のように、旅には抗えない魅力があるのも事実だ。エルメスが刻む時もそれを示す。

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1978年に誕生した「アルソー」は、馬具のあぶみから着想を得た非対称のラグを備え、躍動感のある数字フォントはギャロップする馬のたてがみを思わせる。装着するレザーストラップは時計本体同様、エルメス・オルロジェの工房で製造されたもので、しなやかな質感が特徴だ。11月発売予定。Pt×チタンケース、41mm径、自動巻き。344万3000円[予価]/エルメス(エルメスジャポン 03-3569-3300)

新作の「アルソー ル タン ヴォヤジャー」は、12時位置の小窓でホームタイムと、時分針を備えたインダイヤルでローカルタイムを表示する。インダイアルを文字盤上の円軌道で移動させ、外周に記された都市名の位置に合わせることでその時間帯を示すのである。

この独創的な機構にメゾンらしいエスプリを演出するのがダイヤルに描かれた絵柄であり、それはジェローム・コリヤールがメゾンを代表するシルクスカーフの「カレ」のためにデザインした“乗馬の世界地図”をモチーフにする。

地図上の大陸名に代わって記されているのも、ドレサージュやソワン、キャヴァリエといった馬術や馬にまつわる単語であり、馬具を発祥とするエルメスが思い描く幻想の世界を優雅に馬にまたがり、旅することができるのだ。

もし19世紀末のデカダンの美学を体現したゼッサントがこの時計を手にしたなら、きっとその世界観をこよなく愛し、自身の理想郷で夢幻の旅に没頭することだろう。だが現代を生きるのであれば、これを腕にぜひ旅に出かけたい。

そこに広がっているのはメタバースでもフェイクでもない。世界にはメディアが伝える悲惨なニュースだけではない幸福も存在している。その美しいリアルに触れることが他者への理解を深め、自身の心を潤す。

枯渇した好奇心は時が止まっているのも同じだ。今こそゼンマイを巻き直し、針を進めるときだ。

(この記事はOceansから転記しております。)

文=柴田 充、髙村将司、安部 毅 写真=MACHIO、村本祥一(BYTHEWAY)

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