ただ、公開当時、僕の周囲にこの映画を褒める人はほとんどいなかった。まず映画ファンの多くや映画ライターも、もっと言えば映画会社の宣伝担当さえ「よくわからない」と言って匙を投げていた。彼らは、「登場人物たちの台詞の意味や、目の前で起こっていることが理解できない」と異口同音に言った。
「マネー・ショート」がわかりにくいのは、サブプライムローン市場がどういう構造になっていて、それに対して主人公たちがどのように闘おうとしているのか、そのあたりが少々こみ入っているからである。特に、CDO(債務担保証券)とCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)という字面は似ているが、まったく異なる金融商品が混乱の原因となっている。しかし、ここを押さえておかないと、主人公たちの目論見がさっぱりわからないのである。
CDOは、住宅ローンを証券化し、それを切り刻んでミンチにしてつくった金融商品である。しかし、住宅ローンがあいつで債務不履行に陥り、CDOはクズ同然となり、サブプライムローン証券市場は崩壊する。
もう一方のCDSは「保険」だと理解すればいい。複雑なプロセスを端折ると、CDOの破綻に対する保険だ。CDOが約束しているキャッシュフローを支払えなくなったとき、保険加入者は「保険金」を受け取ることができる。主人公たちはこのCDSを武器に闘うわけだが、言ってみれば、火事を期待して、他人の家に火災保険をかけるようなものだから、あまり趣味がいいとは言えない。
しかし主人公たちが焦燥に駆られるのは、理屈ではもう瓦解してしかるべき市場がなかなかそうならないことだ。瓦解しないと、高額な「保険料」を払わなければならず、主人公たちは追いつめられる。なぜ瓦解しないのか、それは瓦解してもらっては困る人間たちの「気合い」が市場を支えているからだ。高度な数学理論を用いる金融工学が捉えようとする金融市場には、非常に人間くさい感情が紛れ込んでいるのである。
さて、これまで映画という表現メディアでは、概ねエンディングでは、カネと愛では愛を選択させ、理論と人間的な直感とでは直感に勝利させてきた。ならば、「理論対気合い」の闘いでは、気合いが勝つはずである。
しかし、サブプライムローンが崩壊した現実はみなが知るところだ。気合いは負けた。また、主人公たちの戦法は趣味がいいとは言いがたいと前述したが、それゆえ彼らの勝利には痛快さがない。かわりに独特のシブみが映画のエンディングに加わる。ここが「マネー・ショート」の魅力である。では、そのシブみの正体はいったいなにか。
「マネー・ショート」の弔い合戦で小説を
「マネー・ショート」の主人公たちは勝利する。数字的には圧倒的勝利だ。けれど、彼らの何人かは憂鬱である。この「憂鬱な勝者」というエンディングは映画ではあまり見られない。主人公たちのなかでも憂鬱の影がもっとも深いのが、マーク・バウム(スティーヴ・カレル)というアナリストで、彼は勝利を手中にしながらも、なかなかカネを手にしようとしない。
また、勝利を目前に浮かれる若いトレーダーたちを、引退した伝説のトレーダーであるベン・リカート(ブラッド・ピット)が諫める。「お前たちの勝利と引き換えに、多くの人たちが職を失い、住んでいた家を追われるんだぞ」と。