では、映画が、複雑なストーリーを語るのに適していないというのは、なぜなのか。
「あらゆる芸術は音楽の状態に憧れる」と言ったのは、19世紀のドイツの哲学者ショーペンハウアーである。そして、映画と小説とを比べれば、より音楽に似ているのは映画のほうだ。音楽は小難しい理屈を語らない。
作品を受容する時間を規定している点も、映画と音楽は似ている。映画も音楽も表現のテンポはつくり手側が決定し、受け手はそれに従う。映画の観客は、自分に適したテンポで作品を鑑賞することはできない。つくり手と受け手は同じ時間を共有しながら、クライマックスへとともに歩んでいく。
昨今では、映画と映画でないものの区別が議論されることが多くなってきているが、映画の条件として「映画館で上映される」という点を重くみれば、早送りで見るファストムービーなどは映画ではないということなる。
小説のなかにも時間は流れている。だが、小説では、わかりにくいところは読者がスピードを落として吟味しながら読むことが可能だし、途中で辞書を引いたりネットで調べたりすることもできる。なので、それが小説の主たる役割でないことは承知であえて言えば、映画よりも、小説が複雑で込み入った理屈を述べることに適していることは確かだ。
「マネー・ショート」を面白く観るために
映画には映画の、小説には小説の、それぞれの特性を活かした作品が生まれればいい、僕はそんなふうに思い始めていた。ところが、1本の映画を観て、その考えを少し修正した。2015年のアダム・マッケイ監督「マネー・ショート 華麗なる大逆転」(以下「マネー・ショート」)である。
ストーリーは、リーマン・ショックの少し前、アメリカの住宅市場が本当はかなりヤバい地点に来ているのに、いぜんバブルに沸いているころから始まる。まともな住宅などとうてい買えないような低所得者に、融資専門会社が次々と住宅ローンを組ませ、それを証券化した金融商品を証券会社が売りまくっている。
「マネー・ショート」は、この「バブルの塔」が瓦解するのを見越して大金を手にした人物たちにスポットを当てている。非常に面白い、そしてその面白いという感覚が異質である。ひとことで言うと「シブい」のだ。