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2022.07.05

日本の「未来の宝」を救出する選択肢としてのエコシステム


冨田 勝(以下、冨田):それは同意しますね。データ・ドリブン・バイオロジーをIABの看板にするに当たって、その点は考慮しました。ゲノム(遺伝情報の総体)やプロテオーム(タンパク質の総体)に関してはもうすでにやっている人がたくさんいましたが、代謝物を網羅的に測るメタボロームに関しては世界中どこもやっていなかったんですね。

「メタボローム(metabolome)」という言葉自体、私たちが作ったんですよ。では、「そこまで練りに練って考えて曽我くんをリクルートしたのか?」というと、そんなことでもなく、たまたまというか、偶然の要素も大きかったと思います。それでも結果としてはよかったですね。

重要なのは、「汎用」の技術だったということです。分析技術なので、なんでも測れます。血液でも、尿でも、ワインでも、果物でも。この技術を押さえれば、医療はもちろん、農業や環境など、さまざまな分野に展開できます。2002年に曽我くんが特許を取り、03年にベンチャー企業の「ヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ(以下、HMT)」を創業したわけです。その時点でメタボロームは鶴岡の独壇場だったんですね。

:海外ではどうでしたか。

冨田:その後、05年に米ボストンを本部に国際メタボローム学会というのが設立されました。米国人はそういうのが上手なんですよ。これは流行りそうだと思ったら、すぐに米国に本部を創設する。いつのまにか米国がその分野の中心のようになっているのです。

この国際メタボローム学会は、毎年大会を各国持ち回りで開催することになりました。第1回をどこで行うか。ふつうに考えれば、本部のあるボストンですよね。実際、第1回はボストンで開催するという話になりかけました。しかし理事の1人だった私は、やんわりと異議を唱えました。日本はこの分野のパイオニアであり、技術も経験も先行している。だから第1回は日本で開催することが妥当ではないかと主張したのです。

私は第1回の大会をどこで開催するかはとても重要なことだと、かなりこだわっていました。夏季オリンピックの第1回はギリシャのアテネで開催されたことを誰もが知っています。でも第2回をどこで開催したかはほとんどの人が知りませんよね。だから、がんばって第1回を日本の鶴岡に誘致に成功しました。ボストンは第2回になりました。おかげさまで、節目となる14年の第10回大会も鶴岡で開催されました。

:鶴岡市で大規模な国際会議が開かれたのですね。

冨田:はい。海外から300人以上の外国人客が鶴岡市にやってくることになりました。それだけの外国人客が来訪したのは鶴岡市史上初めてだったそうです。当時の鶴岡市は外国人客への対応が遅れていて、英語の看板がなかったり、レストランに英語のメニューなかったり、と。学会側で用意したリセプションや、ホテルの朝食は問題ないとしても、それ以外の食事には英語サポートがまったくありませんでした。

それで市民を巻き込み、それこそ「Go To Eat」のように、あらかじめ学会側で選んだ鶴岡市内の飲食店20店舗1軒1軒にお願いして、写真付きのメニューで「ディナーA」「ディナーB」「ディナーC」といったセットコースを用意してもらいました。街の国際化にも貢献できたと思います。

:そういう意味でも、メタボロームのような汎用技術を選んだことが、後の大成功につながっている要因のようですが、そこまで厳密に計算して考えていたわけではなく、結果的にそうなった、と。
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インタビュー=牧 兼充 写真=能仁広之

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