来世は存在するのか? 難題のテーマに挑んだ北欧ミステリ「印(サイン)」


至福の感情で満たしながらラストへ


死後の世界との交信や臨死体験といった神秘的な現象が次々飛び出すミステリの未体験ゾーンに、心をざわつかせながらページをめくる読者は多いだろう。しかしもう1つ、本作には重要なテーマがある。それは、大切な人を失った悲しみに癒しはあるのかという問題だ。

不慮の出来事で掛け替えのない一員を失った家族は、そこからどう生きていったらいいのだろうか? 作者は、悲運に見舞われた家族関係をいくつも重ねて描きながら、読者にそう問いかけていく。そしてそのなかには、エーレンデュルの家族までも含まれる。

過去の作品でも度々触れられていることだが、エーレンデュル自身にも、大切な家族を失った過去があった。少年時代に吹雪の山中で父とはぐれ、行方の知れなくなった弟がいたのだ。自分は雪の下から仮死状態で発見され生還したが、それ以来、弟を守れなかった自責の念を抱えたまま彼は生きてきた。

検死報告には自殺とあるのに、マリアの死に彼が引き寄せられていくのも、捜査官としての本能というより、内側から湧き出る抑え難い衝動に導かれたものであることが暗示される。ほどなくマリアの事件と並行して、エーレンデュルの関心は30年前に相次いだ未解決の失踪事件にも向けられていく。

複数の事件が並行するモジュラー型の展開は警察小説の定石ともいえるが、現在の変死事件と過去の失踪事件は互いに呼応しつつ、印象的なラストへと繋がっていくのだ。読者の心を、癒しにも似た至福の感情で満たしながら。

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エーレンデュル捜査官シリーズ カバーデザイン/中村聡

レイキャヴィク警察の捜査官エーレンデュルを主人公としたシリーズは、2012年に紹介された「湿地」以来、アイスランド社会の歪みと歴史の暗部に容赦なくメスを入れてきた。しかし、本作はそのシリーズの番外編ともいえる主人公エーレンデュル個人と切り離すことのできない事件を描き、作中では彼自身の人生にもひとつの大きな転機が訪れる。

神秘的なテーマや家族について深く考えさせられる1編だが、事件と並行して「湿地」以来、私生活における別れた妻や子どもたちとの複雑な関係が、とりあえず一応の決着を見せるひと幕もある。そういう意味ではシリーズにおける区切りの1作ともいえるだろう。

とはいえ、これまでの6作は、必ずしも刊行順に辿る必要はない。作品ごとにテーマは完結し、その完成度もきわめて高いからだ。本作「印(サイン)」から旧作へと遡っていくもよし、「湿地」から順を追うもよし。どう読まれたとしても、シリーズの怜悧な物語性と捜査小説の面白さは少しも揺るがない筈だ。

連載:ウィークエンド読書、この一冊!
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文=三橋 曉

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