米国で「コンドーム王」となった移民起業家

移民起業家ユリウス・シュミットが製造したコンドームのブランドには、フーレックス、ラムゼス、シークなどがあった。クリーブランドにあるケース・ウェスタン・リザーブ大学のディトリック医学史センター・博物館にあるラムセス・コンドームの箱。(Mike Cardew/Akron Beacon Journal/Tribune News Service via Getty Images)

100年以上前、米国の移民起業家ユリウス・シュミットは、自身の製品販売により刑務所行きになる恐れに直面していた。コンドームの製造販売というアイデアがあったものの、米国では避妊具の販売が違法だったのだ。

米国では1872年3月3日、避妊を規制する法律が成立。書籍『Devices & Desire: A History of Contraceptives in America(器具と願望 米国の避妊の歴史)』を執筆した歴史家アンドレア・トーンによると、避妊規制の条項はより広範な郵便法「コムストック法」に組み込まれ、政治的議論がほとんどなされないまま可決された。同法の名前は、その主な推進者で、わいせつ物取り締まり運動を主導したアンソニー・コムストックにちなんでいる。同法では、避妊はわいせつなものとされた。

1882年にドイツから米国に移住したシュミットは、この国で富を得るのはそう簡単ではないことに気づいた。移民であることに加え、歩くのに松葉杖が必要だったため、さらに不利な立場にあった。余分な服を売ったりして、何とか食いつないだ。

ソーセージ工場で働いていた際、ソーセージの皮を作るため動物の腸を洗浄する方法を習得。同じ素材を使い、「スキン」と呼ばれるコンドームを製造する事業を立ち上げた。事業は後に大きな富をもたらすことになるが、それには大きなリスクが伴っていた。

規制法の特別執行官だったコムストックは1890年9月18日、シュミットの自宅を強制捜索。シュミットは500ドルの保釈金を払い釈放され、50ドルの罰金を言い渡された。これは当時の平均的な賃金労働者にとっては大きな額だったが、密売で成功を収めたシュミットにとっては問題となるものではなく、罰金を支払った上でコンドーム販売を再開した。

政府の政策と世論が一致していなかったことが、最終的にはシュミットに有利に働いた。コムストックに関する書籍『The Man Who Hated Women(女性を嫌った男)』の著者であるエイミー・ソーンによると、米国の一般家庭は、自分たちには生殖に関する選択の権利があるとの考えを強め、裁判の陪審も避妊具販売者を悪人とはみなさないようになっていった。
次ページ > 移民排斥派は避妊に反対

編集=遠藤宗生

ForbesBrandVoice

人気記事