フランクが、隣家で麻薬の取引をしているリッキーとレスターの姿をまったく別のシーンに誤認したのは、それが彼の秘めたるセクシュアリティを直撃したからだった。
保守的意識の強いフランクの中で、自分がゲイであることは否認せねばならないものゆえに、ことさら否定的な言葉を吐いてきたわけだが、レスターと対面した彼の中で規範の縛りは限界に達する。
この一連のシークエンスは、フランクの誤解とそれが無惨に解けるところで終わっている。混乱しきったフランクが、「知られてはならぬことを知られてしまった(いずれ息子にも知られる)」というパニックとそれを未然に阻止するためのレスター殺害へと追い詰められる過程を、直接描かず後から見る者に想像させる演出が秀逸だ。
だがこの間、レスターをめぐるそれまでの人間関係はそれぞれに落ち着きを取り戻し始める。
誘惑的態度をとっていたアンジェラが実は想像していたような”ビッチ”ではないことを知り、我に返って娘の近況を彼女に訪ねるレスターには、父親の顔が回復している。
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「あんなパパ死んだ方がまし」という言葉をリッキーに嗜められ、「私は悪い娘。今のは冗談よ」と返すジェーンは、心の中で父との和解を待っている。彼女を諭したリッキーも同様かもしれない。
車の中で1人気勢を上げるキャロラインはピストルを手にしているものの、夫への殺意はない。彼女はいつも単に大袈裟なだけだ。
つまり家族の闇を皮肉を込めて描くこのドラマの最大の皮肉は、2つある。1つは、レスターが当初思っていたほどには家族が壊滅的な状況には達しておらず、夢から覚めたように家族写真をしみじみ眺めている最中に突然訪れる死は、偶然が重なって引き起こされたに過ぎないという点。
もう1つは、立場的に秘匿しておかねばならない欲望をもつ父親2人が、それと知らずに不幸な出会い方をしたことだ。もし彼らが、抑圧に苦しむ男として腹を割って話せる仲になれていたら……と想像せずにはいられないが、それはまずあり得ないシナリオである。
ベクトルは異なるにしても、従来的な家族という枠組みから逸脱する自己を抱えた父が、同じような立場の父を殺すという最悪の結末を迎えるこのドラマは、アメリカの「父なる規範」の自滅を描いていると言えるだろう。
連載:シネマの男〜父なき時代のファーザーシップ
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