ところが翌年、日中戦争の影響で米穀商が許可制となったため、果物販売へとシフト。1940年に築地場外で「紀伊國屋果物店」として再スタートを切ることとなります。
果物の名産地である紀伊国からとった名前でしたが、客から「きのくにやさん」とさん付けで呼ばれることが多く、名前が長すぎるのではないかと改名。気軽に呼べて、最後に「運」がつくという理由から、紀伊國屋果物店の「紀」と保芦の妻・文子の「文」を組み合わせて「紀文」としました。
1941年には海産物卸売業にも着手。戦後は「紀文商店」として海産物卸売業も再開し、「築地に紀文あり」といわれるまでになったのです。
紀文の革新的な精神の象徴として、今も大切に保存されている1台のバイクがあります。それが、戦後間もない1946年に購入したイタリア製バイクのモト・グッチィ。白米10kgが20円、公務員の初任給が540円の時代に、約3万円もしたと言います。
紀文はこのバイクをフル活用することで、小田原、九十九里、霞ヶ浦、浦安へと駆け巡り、鮮度の高い海産物をいち早く店頭に並べることに成功。汽車の切符を入手するだけで2日かかることもあった時代に、バイクの機動力を手に入れた紀文は、時代を先んじた投資でますます評判を高くしていきました。
水産練り製品の製造は、1947年に山久蒲鉾(後に釜文蒲鉾に商号変更)に出資したことからスタート。製造販売を一体化して事業展開するため、1957年には海産物卸売業の紀文商店と水産練り製品製造業の釜文蒲鉾の新設合併により紀文が設立されました。
水産練り製品との出会いを「運命的」という紀文は、白身魚のすり身とチーズが三層構造になっている「チーちく(R)」や、白身魚のすり身と豆腐を混ぜ合わせた「魚河岸揚げ(R)」など、革新的な商品をいくつも生み出しています。
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