舞台は川崎市中原区の河川敷につくられた多摩川スピードウェイ。全長約1200mのオーバル(楕円)形のコースを擁するアジア初の常設サーキットで、優勝杯、ボッシュ杯、国産小型レース杯など部門別にレースが行われ、3万人とも言われる観客が熱狂しました。
本大会の運営には「フェアレディZ」の生みの親である片山豊が、そしてホンダ創業者の本田宗一郎は参加者としてレースに挑みました。当時は、まだ自動車産業が黎明期にあった日本。このレースへの出場をきっかけに、設計図もないまま試行錯誤しながらレーシングカーをつくって参加した技術者たちもいたそうです。この大会は、技術の進歩や人材の育成・交流に大きな影響を与えるきっかけとなりました。
国産小型車の部門では、オオタ自動車工業(高速機関工業)の「オオタ号」が日産自動車のダットサンを破って優勝。日産コンツェルンの鮎川義介は、2位という結果にショックを受け、同年に行われた第2回大会での必勝を厳命したといわれています。
本田宗一郎は弟の弁二郎とともにフォードを改造した「浜松号」で参戦しました。圧倒的な速さで独走したものの、ピットから急に出てきた車と接触してクラッシュ。弁二郎は背骨を折る重傷、宗一郎自身も目などに怪我を負ってしまいます。無念のリタイアとなりましたが、平均時速120kmのスピードが評価されてトロフィーを受けました。
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