発起人の思い、そして「二代目のジレンマ」
父は最期、奉納に向けて呼子町の神社宮司らと会話を重ねる中で、3つの大きな問題に直面していた。
1つ目の問題:モデルは「シラス鯨」ではなく「セミ鯨」
「幻の曳山」構想で父が作っていた模型のモデルは「シラス鯨」。しかし、呼子の捕鯨で価値があったのは「セミ鯨」でした。造形デザインを根本的にやり直さなければならなくなった上、セミ鯨はずんぐりしていて造形的な美しさを見出すことができずにいた。
2つ目の問題:漆が使えない?
「唐津くんち」の曳山は漆塗り。漆は保管の温度と湿度が重要で、格納庫での保管維持費は決して安いものではない。致命的なのは、10年に一度塗り直しが必要で、そのコストは1億円に迫るということ。もちろん呼子側に負担する余裕はない。“漆風”の化学塗料に頼るしか術はないのかと、民藝を愛した父にとって致命的な妥協を迫られていた。
3つ目の問題:「漁師の港町」呼子に相応しい曳山のカタチ
「唐津くんち」の曳山との差別化を求められていた。城下町を象徴する「唐津くんち」の曳山の猛々しさに代わる、漁師町である呼子の「おくんち」に相応しいものがよい。これもコンセプトから練り直さなければならない問題だった。
(「唐津くんち」)
私自身も問題を抱えていました。
鯨の曳山を奉納することだけは決まったけれど、問題は山積み。「鯨の曳山、自分はどこまで本気で作りたい?」。自問自答を繰り返しては、無為に時間だけが過ぎてゆく。父の遺志と現実の進展のなさに挟まれながら、気持ちの“揺らぎ”に耐えていた2020年10月某日、呼子側の担当者から連絡が入る。
「町で本格的に協議に入れるようになったので曳山製作に向けてやり取りしましょう」
不意を突かれて驚いた。他者が情熱をかけて立ち上げたものを継承する難しさに初めて直面したのは、会社事業を父から継承した時だった。創業者の想いをのせたバトンを渡されたものの、どこか“自分ごと”として消化しきれなかった当時の経験を道標に、原点回帰。「あらゆる困難を超えて曳山を作りたい!」。
自らの想いを持って曳山製作に向き合うと決めた時、止まっていた時間が動き出した。
呼子八幡神社の境内からの古い町並みと海の展望