その唐津のまちにも過疎化の波は押し寄せる。
当時、一般財団法人「全国唐津っ子連合」を主宰していた進藤幸彦氏は故郷の衰退を憂いていた。そんな或る時、話は急展開する。「唐津くんち」には今ある曳山14台に加え、かつてもう3台存在していたことが判った。
故郷の窮地を救うべく現れた「幻の曳山」。その復興の裏にはどんなドラマがあったのか。50年後、100年後に受け継がれる地方都市の活性化や、世代を超えた住人の交流。進藤幸彦氏の壮大な遺志を継いで尽力されてきたご子息・さわと氏が、自らの言葉で想いを紡ぐ。
捕鯨の基地「呼子」で「幻の曳山」を蘇らせる
父・進藤幸彦は張り切っていた。
2010年に社長の座を私に引き渡した後、自身の故郷である佐賀県の唐津で活動を始めていた。民俗学を学び、地域に根ざした文化をテーマに仕事を立ち上げてきた父の価値観からすれば、「真の地方創生」には豊かな地域性が伴う。「独自性のある文化こそが、地域の活性化に必要な団結やアイデンティティの根となっていく」。父の信念である。
父は活動を通じて曳山の歴史を遡り、3つの「幻の曳山」の存在を知ることになる。
1.江戸時代の曳山絵図にも描かれる紺屋町の「黒獅子」
2.物価高騰のために製作目前に頓挫した八百屋町の「三尾の金魚(らんちゅう)」
3.町田で構想が語られていたという「鯨」
早々に、父は3つの「幻の曳山」を蘇らせるプロジェクトを立ち上げた。江戸から明治にかけて曳山の数に比例して町が繁栄してきた歴史を踏まえ、現代での復興は「唐津くんち」の未来に繋がると説いたのだ。
江戸時代に描かれた曳山絵図。真ん中に今はない黒い獅子の曳山が存在している
日本三大松原である虹の松原、唐津城、唐津焼など自然と歴史文化の豊かな唐津
結論から言えば、父の幻の曳山のプロジェクトは実現しなかった。
文化財クラスの由緒ある祭りに手を加えることは、予想をはるかに超えて骨の折れるものだった。加えて、自身の癌の再発により追い詰められる。そんな最中の朗報だった。唐津市に吸収合併された呼子町の神社宮司からの「曳山製作を引き受けて、祭り行事を復興したい」という打診があり、局面が動き出す。蘇った曳山の姿を父はその目にすることは叶わなかったが、心身が限界を超えてもなお“自分”を貫いた父の想いが、最期に「鯨」の復興への糸をたぐり寄せたのだろう。
「かつて曳山行事があった呼子からの申し出は願ってもいない好機。捕鯨で栄えた漁師の港町で復興する曳山は「鯨」が相応しい」
国指定の無形文化財でもある「唐津くんち」。巨大で重厚な漆の工芸が町を練り歩く