藤子不二雄Aの仕事術。「毎日楽しく過ごす努力」が運を引き寄せる

The Good Brigade/ Getty Images

残念な訃報が届いたのは、記憶に新しいところです。「忍者ハットリくん」「プロゴルファー猿」「笑ゥせぇるすまん」など、60年以上にわたる漫画家生活で、大ヒット漫画を次々と世に送り出してきた藤子不二雄Aさん。本名は我孫子素雄さん、1934年に富山県氷見郡氷見町(現氷見市)に生まれました。

小学校の同級生だった藤子・F・不二雄さんこと藤本弘さんと漫画家を目指して上京。コンビを組んで「藤子不二雄」の筆名で描いた大ヒット作「オバケのQ太郎」を世に送り出します。1987年からはコンビを解消し、「藤子不二雄A」として活動するようになります。

漫画家になる夢を忘れかけていた


藤子不二雄Aさんにインタビューをしていたときに彼の口から最初に出てきたのは、意外な経歴でした。

「実は僕は一度、就職しているんです。叔父が重役をしていた故郷の新聞社に2年間、勤めていたんです」
 
小学生のころから漫画家をめざしていた藤子不二雄Aさんでしたが、高校卒業後、叔父に勧められて生まれ故郷の富山県の新聞社、富山新聞社で働いていたのでした。

「仕事はとても楽しかった。当時の首相の似顔絵を描いたり、人物にインタビューをしたり、映画評を書いたりしていました」

有名なお寺の長男でしたが、地元での就職は、母親も喜んでくれていたといいます。

「2年目には、かわいい女性の後輩も入ってきて、それまで10時ごろに重役出勤していたのが、朝7時から会社に行くようになったりしましたね(笑)」

そんなとき、藤子不二雄Aさんが「藤本くん」と呼んでいた藤子・F・不二雄さんから一緒に東京に行って漫画家になろうと誘われることになります。

「驚きました。漫画家になる夢なんて、もう忘れかけていた。そのくらい当時は、順風満帆の会社員人生を送っていたんです。叔父も新聞社にいましたから、将来は役員になれるかもしれない」

漫画家をめざすとなれば、将来の人生設計を一度ゼロにしなければならなくなります。しかも、漫画家になれる保証もなければ、なったとしてうまくいくわけでもありません。そこで、思いついたことがありました。

「母に相談すれば、必ず反対される。それを口実に東京行きをあきらめようというものでした」

ところが、これが意外な結末になります。

「母はのんびりした人でしてね、『好きにしなさい』とひと言(笑)。結局、迷いに迷って、漫画家をめざすことを決心しました」

新聞社にいた叔父には怒られたといいます。「そんな勝手なばかりじゃ、人生やっていけないぞ」と。ところが、このときの決断が、あとで考えるとベストチョイスだったことがわかるのです。2年後、叔父は親会社とケンカして会社を辞めてしまったからです。

「そのまま新聞社にいたら、僕は冷や飯を食わされていた可能性が高い。それこそ、当時の人生設計なんて、吹っ飛んでしまっていたでしょう」

藤子不二雄Aという漫画家


1954年の上京当時は厳しい生活を強いられることになりました。お金がなくて、当時30円のラーメンすら食べられなかった。しかし、やがて児童漫画家として才能が開花します。

「僕の漫画は、自分が読みたいものを描いていたんです。誰も描いていないから、自分で描こうと。そして自分の経験を想像力で膨らませて、夢を描いていきました」

例えば「忍者ハットリくん」は、子どものころ「空を飛んでみたい」と思った体験から生まれたということです。

「僕はチビで人見知りで目立たない子どもでした。そんな子どもがいきなり空を飛び、『我孫子、あいつすごいな』なんて言われたらといつも思っていました。それが発想の原点だったんです」

その後も次々とヒット作品が生まれますが、やがて転機が訪れます。青年向けの漫画「笑ゥせぇるすまん」を生み出すのです。
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文=上阪 徹

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