そんなデジタルマーケティングに虚しさを感じるのは、人を幸せにしている実感がないからではないか。
電通デジタルのテクノロジートランスフォーメーション部門CRMソリューション事業部でグループマネージャーを務める大船良は、そんな疑問を抱えながらキャリアを歩んできた。
そして今、ようやく「人の幸せ」に向き合える職場に辿り着いた。
CRM(顧客管理)システム等を最大限活用しながら、クライアントの事業を変革支援する立場の大船。「人の幸せ」にこだわる彼は、どのように働いているのだろうか。テクノロジーを扱う部署にいながら“手触り感”を大切にする大船の、哲学と流儀を深掘りしていく。
39歳、最後の賭けとしての転職──SI、事業会社、コンサルなど多様な人材が混じり合う組織へ
大船にはどこかアーティストのような雰囲気が漂う。「音楽はレコード以外では聴かない」というアナログなこだわりも、納得がいく佇まいだ。
美大でファインアートやデザインを学んだ後、ものづくりの道へと進んだ。
これまで作ってきたものは、電化製品の広告からゲームソフトのパッケージ、Webサイト、スマートフォン用アプリまで多岐にわたる。ものを作ることに自分の存在意義があると信じ、10年以上にわたってひたすら手を動かしてきた。
しかし30代後半に差し掛かると「このままクリエイティブ畑を歩み続けるべきか?」という疑問が湧いてきた。何を作っても満たされない。そんな自分がいることに気付いたという。
「それまではずっと自分を主語に置いて、自分が作りたいものを作ってきました。でもそれでは、誰かを幸せにしている実感を得られなかった。このままではいつまで経っても満たされない。これからは自分のためではなく、“社会”を主語にした働き方がしたいと思ったんです」
クリエイティブも絡むデジタルマーケティング業界でなら、自分の強みも活かしつつ、社会や社会の仕組みにアプローチできるかもしれない。大船は、あるマーケティング会社へと転職する。
そこで経験を積んだ大船は、今度はある広告エージェンシーに歩みを進める。もっと「手触り感」のある仕事がしたい──。インフラや商業施設といった、生活者の姿や動きが見えるデータが集まる場所を選んだのだ。
ただ、歴史ある会社の中で立ち上がったデジタル部門で人数も少なく、孤立感を感じると共に、自分一人で手にできる経験値や成長速度に限界を感じていたとも話す。
気が置けない友人に胸の内を話すと、その友人は自分の勤め先である電通デジタルを紹介してくれた。自分が求めていた、社会を少しでも幸せにしているような「手触り感」を、この会社なら得られるかもしれない。話を聞くうちに、そんな予感がしたという。
「電通デジタルには多様なバックグラウンドを持つスペシャリストが集まっていると聞いて。そうした人たちと“対話”を重ねながら価値を提供していける環境は、とても魅力的に感じました」
当時39歳だった大船は、これがラストチャンスと覚悟して電通デジタルに飛び込んだ。入社してみると、メンバーの多様さは想像以上だった。今、大船が所属している事業部には、SIやベンダー、事業会社、コンサル、クリエイティブ畑などの出身者が集まっているという。もちろん特技も性格もさまざま。チームのことを話す大船は楽しそうだ。
「良い意味で動物園のような、画一的ではない雰囲気が気に入っています。社名にデジタルと付いている割には、非常にヒューマンな組織だなと感じますね」
「売れる」だけが正義ではない。企業の在り方に向き合う
大船が現在所属しているテクノロジートランスフォーメーション部門は、クライアントの組織ないしは事業におけるデジタル変革を技術面で支える役割を担っている。
策定した戦略に基づき、それをどのようなツールやデータ、機能を用いて実現するかをプランニング。その後の開発実装、運用支援まで一貫して手掛けるのが大船のチームのミッションだ。
求めていた「手触り感」は、どんな瞬間に感じるのだろうか。
「例えば、某アパレル企業のクライアントから『MA(自動マーケティング)ツールを使ってお客様ごとに表示されるコンテンツを出し分けたい』という要望があった時。処理の負荷が高すぎて実現が難しそうな場合に、我々は『できません』と言うのではなく、その目的を改めて確認したり、別のアプローチを提案したりして、クライアントと一緒に望ましい方向性を探ります。
その時、電通デジタルのメンバーはきちんとクライアントが何を目指したいのかを踏まえて検討をしています。その先にある、あるべき顧客体験をみんなで考え、さまざまな利害調整を乗り越えてクライアントの合意を得られた時は、すごくやりがいを感じますね」
数字やデータだけと向き合うのではなく、社内外の多様なメンバーと対話を重ねながら前へと進んでいく。この道のりこそ、大船が求めていたものだった。
そんな恵まれた環境だからこそ、大船にはトライしなくてはならないことがあるという。
「消費者にものを買わせることが、常に正義だとは思っていません」
クライアントの売上にも貢献することが大事と思われがちな立場で、大船は信じがたい言葉の後、こう続けた。
「世の中では今、コロナや戦争などのさまざまな問題が発生していますし、様々な社会情勢があります。そうした世の中の情勢を意識しながら『これからやろうとしているマーケティングは、企業の在り方として適切なのか?』ということを、メンバーと共に日々真剣に考えているんです。
だからこそ、クライアントには『このシステムを回す目的、このメールを配信する目的は何?』という“そもそも”の話をよくします。『ただモノを買わせるだけじゃないコミュニケーションもありますよね?』とはっきり言うこともあります」
大胆な問いかけに聞こえるが、なぜそうした対話が必要だと考えているのだろうか。
「もちろんクライアントの収益に貢献する必要がありますが、『どうすればクライアントは顧客とより良い関係性を築けるか?』と本気で考えることも、目先の数値を追うこと以上に重要な場面もあります。
頼まれたことを『これで本当にみんなが幸せになれるのかな?』と疑問に思いながらも、『依頼されたことだけやればいい』といった対応は不義理。クライアントからフィーを頂いている以上、我々も腹を割って話して、本質的な部分とちゃんと向き合いたいんです」
実際、ほとんどのクライアントは真摯に耳を傾けてくれるという。
誰かを幸せにできなければ意味がない──。そんな大船の「幸せ」に対するこだわりは、多くの企業のコミュニケーション戦略に影響を与えている。
人生は有限だからこそ、少しでも楽しい方が良い
仕事に「手触り感」をもたらす人材の多様性は、会社の制度がもたらす面も大きいと大船は考えている。
最近は大船のグループに所属する男性社員が、育児休暇を取得した。「生活を大事にすると、仕事に還元されるものがある」というのが、大船の考えだ。
「電通デジタルのクライアントは企業ですが、そのサービスは一般の方に届くものです。それを考えると、我々は決して生活者としての視点を忘れてはいけません。メンバーには『土日はちゃんと休んでください』とグループ会で繰り返し伝えています」
大船自身もマネージャーとして、多様なメンバーが働きやすくなるためにできることを日々考えている。さまざまなキャリアを積んできた人がいるからこそ、制度や成長プランが紋切り型になってはいけない。個別最適化された成長環境を提供できるよう、試行錯誤している最中だそうだ。
クライアントやその顧客だけではなく、メンバーの幸せももちろん考えている大船。根底にあるのは「幸せとは何か?」という問いだという。なぜそこまで、幸せにこだわるのだろうか?
「人生有限だからこそ、与えられたこの時間は少しでも楽しく過ごせると良いなと思うんです。じゃあどうしたら人は幸せになれるのか。それをずっと考え続けているんです」
大船が目指すのは「幸せとは何か?」とすら、問う必要のない世界。当面の目標は「人にとって心地の良いCRMの在り方を追求すること」だと語った。
数字だけを追い、消費者にものを買わせる。テクノロジーの先にあるのがそんな世界にとどまってしまうのは寂しい。大船のような人間らしさが、社会をより良い未来へ導いていくのかもしれない。