2つめの岡本イズムは、「垣根を取り払う」ことだという。21日の会合には大勢の人が参席した。外交官の世界に閉じこもらず、政財界や文化人、マスコミに至るまで、大勢の人と親交を結んだ。安全保障はかつて軍事の問題に特化すれば良かった。でも、ロシアに対する経済制裁や文化交流の停止など、安全保障の幅はかつてないほど広がった。日本でも外交官や自衛官だけが安保を議論していては立ち行かない時代だ。総合的安全保障が問われる世の中で、岡本さんのような生き方が改めて求められている。
そして、3つめの岡本イズムは「相手の心を動かす」ことだという。友人代表としてあいさつした佐々江賢一郎元駐米大使も同じ話を紹介していた。岡本さんはいつも真剣だった。橋本政権で務めた首相補佐官時代、「米軍基地の返還などできるわけがない」という外務省の声を横目に、米軍普天間飛行場など沖縄県の米軍基地の返還などに奔走した。何度も沖縄に足を運び、地元の人たちと交流し、酒を飲み、本音で語り合った。理詰めで話すだけでは、人は動かないと信じていた。その理念に共鳴し、危険の伴う現場で活躍したのが、岡本さんを慕う多くの後輩外交官の一人、奥克彦氏だった。2003年、奥氏がイラクで殺害された。首相官邸の補佐官室で私と面会した岡本さんは「奥はねえ、戦死したんだ」と絶叫し、涙した。
どの国もそうだが、経済や安保環境が悪くなり始めると、人々に余裕がなくなる。攻撃的な言説が増え、とげとげしい雰囲気になる。日本も1990年代にバブル経済が崩壊し、国際環境が悪化し、ザラザラした論調が増えた。岡本さんは、主義主張に寛容な人だったし、相手を許す度量の持ち主だった。この日も「岡本さんは優しい、親切な人だった」という発言が出た。外務省時代、よく湘南の自宅に後輩たちを招いて食事を振る舞った。そこで生涯の伴侶を見つけた人もいた。
この日、岡本さんの遺作になった『危機の外交 岡本行夫自伝』(新潮社)が参席者に配られた。その最後のところに、ウクライナ危機や台湾海峡の問題に直面した日本人が正面から向き合うべき言葉が並んでいた。「日本が口先平和主義から脱却していくには、まだ何十年かかるだろう」「『日本こそ美しい国』などというテーゼに共感するのは、日本人自身だけである」「日本の行く末は心配である」「僕らは今、没落の始まりの時期にいるのかもしれない」
ウクライナや中国の問題で、岡本さんに教えを請いたいという思いで、ページを繰っていたら、「自分の頭で考えなさい」という声が聞こえた気がした。
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