2004年に東京を中心にお笑いライブの運営を手掛ける「K-PRO」を立ち上げ、多くの芸人たちに舞台を提供してきた。2021年の「M-1グランプリ」で活躍した錦鯉やランジャタイ、真空ジェシカなども、K-PROのライブで場数を踏んできた芸人だ。
2021年4月には、K-PRO専用の劇場「西新宿ナルゲキ」をオープン。コロナ禍にもかかわらず1日2〜3回の公演を開催する盛況ぶりで、K-PROとしても大きな成長の一年となった。
日本のエンタメの歴史を振り返っても、ライブイベントのプロデユースを生業としてきた個人は多くいる。しかし、大きな組織に所属せずに劇場の運営までもを手がけた例は、彼女を除いてほぼいないのではないだろうか。
怒られた「悔しさ」がモチベーションに
児島は、子どもの頃からバラエティ番組が大好きだった。
特に惹かれたのが1990年代にブームになった番組『ボキャブラ天国』(フジテレビ系列)。当時中学生だった児島は、若手のお笑い芸人として活躍していた爆笑問題やネプチューンに興味をもった。
転機になったのは、高校3年生の時。友人の誘いでお笑いライブの手伝いに行く機会があった。テレビに出ている有名人に会えるのではと期待して行ったが、小劇場だったので出演していたのは知らない芸人ばかり。
嫌になって劇場の隅でふて腐れていたら、出演していた落語家に「今日初めて来た一番下っ端の奴が、なにそんなとこで休んでんだよ!」と怒られた。
「それがめちゃくちゃ悔しかったんです。こっちもあんたのこと知らないよって(笑)。だったら、次は絶対『いてくれてありがとう』と言ってもらえるスタッフになってやろうという気持ちになって。だからライブの手伝いを続けました」
しだいに手伝いだけでなく、自分でライブを主催したいと思うようになり、3人の仲間とアマチュア芸人を集めたライブを企画するようになった。劇場を借りる手続きの際に、「代表は私です」と名乗ったのがK-PROの始まりだ。「K-PRO代表」がいつのまにか児島の通り名になっていった。
2004年、本格的にK-PROを設立すると、新宿の小劇場「新宿Fu-」で初ライブを開催した。このライブは100の客席が満杯になったばかりか、立ち見客も出るほどの大盛況に終わる。しかし続く2回目のライブは、あぐらをかいてしまって準備が遅れたこともあり20〜30人ほどしか集まらなかった。
開演前、そのことを出演芸人に謝罪したところ「俺たちはどんな小さな舞台でも、全力でやるから大丈夫」と励ましの言葉をかけられた。
「芸人さんの優しさだったのでしょうが、『小さな舞台』と言われたことが悔しくて。この言葉が、『じゃあ、次はやってやるよ』と、さらに熱意を燃やすきっかけになりました」
20年近く前に感じたその“悔しさ”はいまだにありありと思い出せると言う。