ひやりとする言葉を包む柔らかな声。話すのは、青木さやかだ。現在48歳。芸人として「どこ見てんのよ?」と怒声をあげにらみつけるネタで一世を風靡してから、まもなく20年が経つ。
20代の頃はギャンブルばかりしていた。生きる事が楽しくなく、ネタ帳に「死にたい」と書きなぐったこともある。芸人として第一線で活躍していた30代にはパニック障害を患い、40代の初めには肺がんに罹患し闘病も経験した。
48歳になった今は、俳優として舞台に立ったり、動物愛護の活動に精を出したり。インタビューに答える話し方も、「キレキャラ」として名を轟かせていた頃とはまるで違う雰囲気だ。
最近はエッセイストとしての活躍もめざましい。母親との確執を赤裸々に綴った『母』(中央公論新社、2021年)は大きな話題となった。そしてこの3月には、2冊目となる書き下ろしエッセイ『厄介なオンナ』(大和書房)を上梓。芸能界でブレイクした時の葛藤や日々の心情を綴っている。
「ブレイクしていた時は、仕事上の人間関係もうまくいかず、楽しくもなくいつもイライラしていました。あの頃は何をやっていても不安や不満がいっぱいでした」
自分を認めて欲しいあまりに嫉妬心に苛まれ、周りの人たちを敵視した結果、孤立してしまう。青木はそんなマインドセットをどう抜け出し、自分らしい働き方をどう見つけたのか。
表にでる仕事はムリかしらと思った
芸人として第一線で働いていた30代の頃は、とにかく余裕がありませんでした。本来はオイシイはずの「容姿いじり」も私は嬉しくはなくて。笑いをとれているのだから、それでいいのに、どうにも器用に振る舞えなくて、慕ってくれる後輩にまで距離をとった時期もありました。「あれがつらい」「これが嫌だ」と意固地になって人と距離をつくっていたんだと思います。
とにかく、余裕がなくて人に頼ることも甘えることもできず、皆が敵に見えてしまったという感じです。
その後、パニック症(パニック障害)を患ったときには、人前に立つ仕事はムリなのではと本気で考えました。離婚した直後で、本来なら子供のためにも一生懸命働かなければいけないのに、誰かと会話しているだけで倒れそうになり「死んじゃうかも!」と急に息ができなくなることが増えていきました。
そんな状態だったので、表に立つ仕事に非常に不安を感じて、就職活動をしたこともありました。お見合いを調整する仕事や、子どもに歌を教える仕事などにトライしましたが、どちらも早々にやめてしまった……。思えば、下積み時代にしていたアルバイトもほとんど長続きしなかったので。そういえば、私はこの仕事しか続いたものはありません。
母を好きになることで得た「希望」
いつも何かにイライラしていた私が、自分の働き方や生き方に対する価値観を大きく変えるきっかけになった出来事は、悪性リンパ腫を患った母をホスピスで看取った経験でした。この頃、私自身も肺がんになり、八方ふさがりでした。何かが変わるなら、と生き方を見直してみることにしたんです。
母は教師をしていたこともあり、常に厳格で、私は幼い頃から褒められたことが一度もなかった。芸能界に進むのも猛反対されましたし、事あるごとに「早く結婚してやめなさい」と言ってくる。いつも私におしつける、そして評価する、一番嫌いな人が母でした。母が私の娘に触ろうとした時、「私の一番大切な娘にさわらないで」と思ってしまう程、どう頑張っても愛せない存在だったんです。