あの日の小学生がW杯出場の立役者に。三苫 薫の「未来思考」

稀代のドリブラーに成長した三苫が、W杯出場を決定づけた/Getty images Hector Vivas - FIFA


それは「縦へのドリブル」。ドリブルのスピードを上げれば、その分だけミスを犯す確率も上がる。失敗から何度も学び、試行錯誤を繰り返しながらスピードにテクニックを融合させ、いま現在に至るプレースタイルのひな形を作り上げた。
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大学2年生だった2017年に、茨城県代表として出場した天皇杯全日本サッカー選手権。1回戦からY.S.C.C.横浜、ベガルタ仙台、アビスパ福岡とJクラブ勢を撃破し、ベスト16進出を果たし、眩い輝きを放ったのが三笘だった。

例えば仙台との2回戦では、自陣からのドリブル突破から奪った先制点に加えて、決勝点も奪う八面六臂の活躍を演じた。そして、天皇杯を含めて、三笘を擁する筑波大学が臨む公式戦には、必ずと言っていいほど川崎のスカウトが来場していた。

本人の希望で一度は別々の道を歩んだものの、川崎は縁を切らなかった。期待の大きさは2年生の夏に、筑波大学蹴球部に所属しながら川崎にも登録され、Jリーグの公式戦に出場できるJFA・Jリーグ特別指定選手になったことからも伝わっている。
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「自分を育ててくれた川崎フロンターレはいまも愛していますけど、思っていた以上にJリーグの舞台は早かった、というのが本音ですね。3年生ぐらいで、と考えていましたけど、そこはプラスに考えて自分自身に期待したいし、成長への励みにしていきたい」

特別指定選手になった喜びをこう語っていた三笘は、3年生の夏には卒業後の川崎加入が内定する。迎えたルーキーイヤーの2020シーズン。即戦力の期待を背負った三笘は、緩急を駆使したドリブル突破で対戦チームの脅威になり続けた。途中出場が多かった序盤戦からやがては左ウイングの定位置を奪い、新人の歴代最多記録に並ぶ13ゴールをあげ、リーグ1位の12アシストをマーク。川崎の独走優勝に大きく貢献したプロ1年目を、三笘はこんな言葉で振り返っている。

「最初のころは途中出場が多かったので、自分の価値をどんどん出していかなければいけなかった。アピールできなければ試合に出られないほど競争が厳しいなかで、毎試合のように結果にこだわってきたことがだんだん形になったと思っている」

結果として憧れの中村とは、1年間しか一緒にプレーできなかった。ただ、運命に導かれたかのように、中村の現役最後のゴールをアシストしたのは三笘だった。

そして、昨年夏には三笘自身も旅立つ。

自身への先行投資


英プレミアリーグのブライトンへ完全移籍し、労働許可証が発給されない関係でベルギーのユニオン・サンジロワーズへ期限付き移籍した。三笘は「海外でプレーするのが夢だった」と振り返る。

「川崎フロンターレのアカデミー時代、先輩たちの背中をずっと追いかけていた。Jリーグで活躍するだけでなく、 海外のクラブで活躍する先輩たちもいる。僕も先輩たちに続いて世界の舞台で結果を出すことが、 川崎フロンターレというクラブを世界に知ってもらえて、クラブの発展につながると思っている。また、アカデミーの代表としてそういう姿を見せることがアカデミーの後輩たちや、これからフロンターレに入りたいと思っている子どもたちに希望を与えられると思っている」

決意はほどなくしてプレーに反映される。例えばリーグ戦では2点をリードされ、さらに退場者を一人出した絶体絶命の状況で途中出場した昨年10月のスラン戦で、リーグ戦初ゴールを皮切りに衝撃的なハットトリックを達成した。
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文=藤江直人

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