あの日の小学生がW杯出場の立役者に。三苫 薫の「未来思考」

稀代のドリブラーに成長した三苫が、W杯出場を決定づけた/Getty images Hector Vivas - FIFA

7大会連続、7度目のワールドカップ出場を決めたサッカー日本代表に、世界を感じさせるニューヒーローが生まれた。

雨が降りしきる敵地シドニーで3月24日に行われた、オーストラリア代表とのアジア最終予選第9戦。後半39分から投入されたMF三笘(みとま)薫(ベルギー ユニオン・サンジロワーズ)が、同44分とアディショナルタイム4分に衝撃的な連続ゴールを叩き込み、森保ジャパンを今秋に中東カタールで開催されるヒノキ舞台へ導いた。オーストラリア戦前まで出場はたったの1試合、無得点だったドリブラー三苫。彼のアマチュア時代を含めたサッカー人生をたどる。

Jリーグ公式ツイッター(@J_League)に投稿された一枚の写真が大きな反響を呼んだ。敵地シドニーで宿敵オーストラリア代表を2-0で撃破した日本代表が、7大会連続7度目のワールドカップ出場を決めてから一夜明けた3月25日だった。

写真には川崎フロンターレ一筋で18年間プレーし、2020シーズンをもって惜しまれながら引退したレジェンド、中村憲剛と手を繋ぎながらスタジアムに入場する少年の姿が収められていた。ツイートにはこんな言葉が綴られていた。

「約13年の時を経て。中村憲剛と手を繋ぐ少年が、日本をカタールW杯に導く立役者となる。Jリーグには世代を超えたドラマがあります」(原文ママ)

2009年10月17日。埼玉スタジアムで行われた大宮アルディージャ戦で、川崎のユニフォームに身を包んでエスコートキッズを務めた、小学校6年生の少年。オーストラリア戦でヒーローとして降臨した三笘薫だった。

当時の三笘は、川崎フロンターレU-12に所属。その後も中学生年代のU-15、高校生年代のU-18と順調にステップアップし、U-18では背番号「10」も拝命。憧れのヒーローに中村をあげながら、プロサッカー選手を目指して心技体を磨き続けた。

しかし、念願だったはずのJリーガーになる目標を、三笘は自らの意思で4年間遅らせている。川崎市立橘高校3年生だった2015年の夏。U-18からトップチームへの昇格を打診してきた川崎に断りを入れた三笘は、筑波大学へ進学した。

決断を下すまで自問自答を繰り返した。大好きなサッカーで食べていくと心に決めていたが、長期的な視点で自分自身の現在地を見たとき、サッカー以外の部分で人間性を磨いていかなければいけないと考えた。

導き出された答えが「大学でひと回り大きくなってから」だった。急がば回れ、の思いを込めて門を叩いた筑波大学蹴球部で、三笘は新しい武器を手に入れる。
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文=藤江直人

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