そのような地球環境の変化と人間の健康との関係を科学的なアプローチで実証し、さまざまな行動指針へとつなげていく「プラネタリーヘルス」の概念がいま、世界中に広がりつつある。この概念を提唱し、研究・実験・情報集積の核を担っているのが、Planetary Health Allianceだ。同組織でディレクターを務めるサミュエル・マイヤーズは、この概念の浸透こそが「未来の地球」の姿を変える助けとなると信じている。彼らが目指す地球全体の健康──プラネタリーヘルスとはどのようなものなのだろうか。
当連載では、三菱UFJリサーチ&コンサルティング(以下、MURC)が、ヘルスケア業界に変革をもたらすと期待する国内外の企業・団体にスポットを当て、「グローバルヘルス」「プラネタリーヘルス」といった視点からポストコロナ時代のヘルスケアに迫っていく。
叡智を結集させ共に環境問題に取り組む必要性
私たち人類は地球共同体の一員である。「ヒト」の健康は「地球の環境」に大きく影響されることから、ヒトが健康に暮らすためには地球も健康でなければならない。
こんな“当然の考え”に到達するまでに、人類は長い時間を要した。人類の健康と地球の健康は切り離せないものであると考える「プラネタリーヘルス」という概念は、2015年にロックフェラー財団と世界的権威の医学誌「ランセット」が共同委員会を立ち上げたことにより、次第に世界に広がりはじめている。
プラネタリーヘルスを実践するためにロックフェラー財団の支援を受けて設立された世界的組織「Planetary Health Alliance」(以下「PHA」)のディレクターを務めるサミュエル・マイヤーズは、同組織設立の背景を語る。
PHAのディレクターを務めるサミュエル・マイヤーズ
「PHAは2016年にランセット・ロックフェラー財団共同委員会がプラネタリーヘルスに関する報告書を発行した直後に設立されました。この報告書は、ランセットが気候変動や生物多様性の損失、汚染、資源の枯渇など緊急性の高いグローバルヘルスへの脅威について取りまとめたものです。
報告書で脅威を訴えるのであれば、それに対してどのようにアクションすべきかも発表すべきだろう。そう考え、報告書と同時にPHAの設立を提案しました。ですから、PHA設立当初は、世界中のさまざまな組織を1カ所に集めたプラットフォームをつくることによって、学際的な分野であるプラネタリーヘルス関連の研究や教育の成長速度を速めることが目的であった」(マイヤーズ)
世界中に広がるプラネタリーヘルスの概念
PHAがプラネタリーヘルスを広げていくなかで重視しているのが、科学的エビデンスだ。冒頭で述べた人類と自然とのつながりを主張する“当然の考え”を証明するためには、科学的エビデンスをもって、点と点を繋ぎ合わせて線にしていく必要がある。人類がいかにその時々の自然システムに依存しているのか、マイヤーズらは科学的アプローチで証明しようとしてきた。
「例えば、私自身が主導したものに、主食とされる6種類の穀物を通常よりもCO2濃度が高い状態で栽培するという実験があります。実験の結果、穀物に含まれる栄養素が減少し、特に鉄、亜鉛、タンパク質が大きく失われることがわかりました。実は、この実験で設定していたCO2濃度は、今世紀半ばに到達すると予測されている濃度です。現在、すでに10億人から20億人もの人たちが栄養失調に苦しんでいますが、地球のCO2濃度がその域に到達した場合、鉄などの欠乏リスクにさらされる人口は1億5,000万人から2億人増加するということがわかりました」(マイヤーズ)
ほかにも、花粉媒介者(ポリネーター)不足と作物の収穫高の関係、昨今増加している山火事の煙害と新型コロナウイルス感染症の死亡リスクについてなど、点と点を結ぶ研究を続けている。
「世界中でさまざまな作物の収穫高が下がっていますが、このうち25%が野生のポリネーター不足に起因している。ポリネーターが不足することで、心疾患や脳卒中、一部のがんに予防効果をもたらす果物や野菜、ナッツの収穫が減ります。これらは、ミツバチなどの虫の減少、つまり生物多様性の損失が人間の健康に直接影響を及ぼす一例だといえます。
また、気候変動の影響を受けて北米やヨーロッパ、南部シベリア、アマゾンで山火事が広まりましたが、それらの地域で煙害にさらされた人ほど、新型コロナウイルス感染症での死亡率が高いというデータも出てきています。気候変動や山火事、大気汚染などの要因が、感染症の重症化リスクに結び付いているのです」(同)
これらの具体例はプラネタリーヘルスコミュニティによる研究成果の一部に過ぎない。創設から6年が経ち、加盟する組織が60カ国300以上に成長した同組織は、学術領域から教育領域に取り組みの幅を広げながら、地域でのハブづくりや、国際機関と連携してプラネタリーヘルスの普及に取り組んでいる。欧州13カ国の政府・議会の諮問機関である「欧州の環境及び持続可能な開発委員会ネットワーク」(EEACネットワーク)が2022年の枠組みとしてプラネタリーヘルスを採択し、またカリブ海、南アジア、東アフリカなどの地域で、新たなプラネタリーヘルスの拠点が広がっている。
「ここ1年半ほどの活動には、プラネタリーヘルスを主流化させるという新たな側面が加わりました。大学に学位取得の課程ができたり、学会誌が作られたりと、さまざまな取り組みがグローバルに行われています。民間企業、政策立案者、一般市民に対して、プラネタリーヘルスを主流にし、地球の自然システムを保護・回復する──それが、私たちの緊急の課題であるという認識を広めることに注力しています。
そのために国レベルを超えて、国際機関との連携に力を入れています。国連開発計画(UNDP)はプラネタリーヘルスを受け入れ、次の3年間の健康アジェンダでもプラネタリーヘルスを中核に策定しています。また、世界保健機関(WHO)でもプラネタリーヘルスに対する意識が高まっており、2021年12月に公表されたジュネーブ健康憲章にもプラネタリーヘルスの概念がかなり取り込まれました。最近では、WHOが世界保健デー(2022年4月7日)のテーマを"Our Planet, Our Health "とすることも発表しています。このように当初は大学単位で始まった活動が国レベル、国際機関レベルに拡大していることは、プラネタリーヘルスの概念がそれだけ世界で受け入れられていることを意味します」(同)
プラネタリーヘルスに日本はどう貢献していくか
世界中でその概念が共有されつつあるプラネタリーヘルスだが、日本ではまだ、あまり聞き慣れないというのが実感ではないだろうか。果たして、プラネタリーヘルスにおける日本の立ち位置はどの辺りにあるのだろうか。
「日本はプラネタリーヘルスにおいて、非常にユニークな立ち位置にあり、この分野でリーダー的存在になることも可能だと思います。それは、世界がいずれ体験するであろう状況を日本が先取りしているという特性があるからです。
例えば、日本は先進的な技術を持つ一方で、人口減少に直面しています。これは近い将来の世界が直面する問題です。また、島国である日本の人々は、環境との境界線の中で生活することに慣れており、持続可能性に対して高い感度をもってる。このような日本の特性を考えると、プラネタリーヘルスを先導するモデルケースになり得る素晴らしい可能性を秘めているとみることができます。
そして、忘れてはならないのが長崎大学の非常にエキサイティングな活動です。長崎大学はIsland Pressが作成したプラネタリーヘルスの教科書(『プラネタリーヘルス -自然を守ることが私たち自身を守る- (Planetary Health, Protecting Nature to Protect Ourselves)』)を翻訳しており、プラネタリーヘルスの概念を大学全体に浸透させようとしています。私たちがGreat transitionの実現、つまり持続可能な地球環境のために暮らし方を大きく変えていくためには、縦割りのバリアを取り払って、工学者や経済学者、農学者などさまざまな分野の人々が一緒に考える必要があります。その点、長崎大学の取り組みは革新的であるといえます」(同)
MURC調査・開発本部ソーシャルインパクト・パートナーシップ事業部の小柴巌和は、これまでの話を聞いて日本の状況について補足する。
MURC調査・開発本部ソーシャルインパクト・パートナーシップ事業部の小柴巌和
「日本では東京大学や長崎大学などいくつかの大学がPHAに加盟していますが、そのなかでも長崎大学はプラネタリーヘルスへの取り組みを打ち出している唯一の大学で、2021年にPHAが作成したサンパウロ宣言にも署名者として参画しています。
一方で、PHAの歩みで語られたように、日本におけるプラネタリーヘルスの取組は大学中心に展開されているのが現状です。例えば、アメリカでは植物由来の代替肉を製造するビヨンド・ミート社、再生エネルギーのインフラを構築するゴアストリート・キャピタル社が第4回プラネタリーヘルス年次総会のスポンサーとなりました。また、シンガポールでは代替肉のインポッシブルフーズ社、中国ではグリーンエネルギーポイントを発行するアリペイ・アント・フォレスト社がプラネタリーヘルスを強く意識したビジネスを展開しています。
しかし、日本企業にそこまでの動きはありません。日本は環境対策で世界的なイニシアチブを取り続けてきました。日本企業による積極的な取組も評価されてきた歴史があります。今後、プラネタリーヘルスのような概念を通じて、日本企業による新たな取組が生まれてくる可能性を期待しています」(小柴)
企業の動きがムーブメント拡大のカギに
プラネタリーヘルスは新しい概念であり、その範囲は広く、市場規模を示すことは難しい。しかし、プラネタリーヘルスの市場規模をSDGsのゴール3(すべての人に健康と福祉を)に置き換えると、推定市場規模は123兆円程度と試算されている。Great transitionがプラネタリーヘルスの実現への道筋であるのならば、そこにビジネスの力が必ず求められる。その場合、PHAはビジネスに何を期待しているのだろうか。
「最近、ビジネス分野にも活動を広げており、個人企業等や持続可能な発展のための世界経済人会議(WBCSD)と連携しています。金融サービス分野の企業の幹部に対しても、プラネタリーヘルスについての講義を始めました。また、企業内で行なっているサスティナビリティ関係の活動とプラネタリーヘルスがどのように結びつくのかという問合せも増えています。
PHAは投資家と直接の接点を持っていませんが、Great transitionを実現するためには金融・銀行分野との連携が必要と認識しています。最近の事例では、重要インフラ開発に関わることが多い大手の多国籍銀行の経営陣にプラネタリーヘルスの研修を行いました。このような研修を金融・銀行分野に拡大していくことで、企業に正しい行動を取らせるための環境づくりを目指します」(マイヤーズ)
PHAが金融・銀行セクターを啓蒙することはあっても、キャッシュフローに棹をささない姿勢は崩していないようだ。そこには誰かのための利益を求めるのではなく、人類と地球全体のために公益的、科学的に活動していくという強い意志が垣間見られる。マイヤーズの話を聞いた小柴は、連載の最後にヘルスケアの未来について語る。
「グローバルヘルスのような概念は、これまで新興国・途上国の健康問題と捉えられてきましたが、新型コロナウイルスのような世界的パンデミックが起こったことで、国境を超えて人々が連携することの大切さが改めて認識されました。そこにプラネタリーヘルスという新たな概念が登場し、ヘルスケアに関する課題が地球規模で取り組む必要のあるものとして存在していることが突きつけられました。
これらの概念に寄り添い、実際の課題解決に取り組むにあたっては、企業の果たす役割がとても大きいと考えます。このような社会的な期待に十分応えていくために日進月歩で発展するテクノロジーを有効に活用して、社会実装を進めていくことが重要です」(小柴)
調査・開発本部ソーシャルインパクト・パートナーシップ事業部のメンバー(一部)。同チームでプラネタリー・ヘルスに取り組む企業・団体を支援していく。
日本企業が国内で手を取り合い、日本から世界へ、そして地球全体を見据えてヘルスケアに貢献する未来がすぐそこに来ている。MURCの本チームでは、今後もプラネタリーヘルスに取り組む企業・団体を支援していく。
Samuel Myers(サミュエル・マイヤーズ)◎Planetary Health Alliance の創設者・ディレクター。ハーバードカレッジで学士号、エール大学医学部で医学博士号、ハーバード大学チャン公衆衛生大学院で公衆衛生学修士号を取得、内科の医師でもある。地球の自然システムの崩壊が人間の健康に及ぼす影響を理解・定量化し、その情報をグローバルな資源管理の意思決定に反映させることを目的とした組織の活動を監督する。
Planetary Health Alliance
https://www.planetaryhealthalliance.org/planetary-health
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